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「ノートルダムの傴僂男」-側彎症

  • 2012.09.1

コミカルな言動、勝利したときの月に向かって矢を放つような独特のポーズ、他を圧倒的する走り・・・、これほど世界の人々を驚かせ、注目されているアスリートも珍しい。1秒の100分の1を争う厳しい世界に身を置き、多くのアスリートが理想の走りを追求するために、省くことのできる無駄をすべて省こうと努力し、少しでもタイムを短縮しようともがいている中で、ウサイン・ボルトの走りは「徒競走の走り」の理論には全く叶わず、曰く独特である。スポーツの世界ではしばしばオンリー・ワンはナンバーワンに結び付かないことが多いが、ボルトの場合は間違いなく数少ない例外である。

 

野茂秀雄の場合は、別に身体的な欠陥があったわけではなく、少しでも速く重いボールを投げようとした結果、独自に編み出した投球フォームがトルネード投法であったが、ボルトの場合は、身体的な「欠陥」のために必然となった走りが故障を生み、それを克服しようと努力した結果、超人的な走るスピードを手に入れた。まさに災いを福となした男である。

 

人類史上最速の9秒58で100mを走る男、ボルト。その圧倒的な記録は、“人類が9秒60を破るのは2039年”とする現代科学のシミュレーションをあざ笑うかの如くの快挙であった。ではボルトはなぜそれを成しえたのか。

 

NHKはオリンピックの直前にこの疑問に迫る特集番組を組んだ。ボルトの異次元とも言える速さの秘密を知るため、ヨーロッパの放送局と共同で、その体の秘密、走りの力学を超ハイスピードカメラなどの特殊撮影や、モーションキャプチャーと呼ばれるハイテク技術を駆使し、その謎に迫ったのだ。そこから見えてきたものは、これまでの短距離走の理論をことごとく覆す特異なフォームと、それを実現するために鍛えられた強靭な筋力の存在であった。

 

ボルトは、1986年ジャマイカに生まれる。小さい頃はイギリス文化圏ということもあってか、ジャマイカでも人気スポーツの一つであるクリケットの選手になることを夢見ていたが、次第にその走力の非凡さが頭角を現わし、短距離走選手の道を歩むようになっていく。2002年、ジャマイカで行われた世界ジュニア選手権、2003年の世界ユース選手権の400メートル走で共に優勝し、2004年には200m走で17歳にしてジュニア史上初めて20秒を切る新記録を出し、世界で注目されるようになる。

 

しかし、この頃からボルトは故障を繰り返すようになっていく。大腿屈筋群の肉離れを頻繁に起こすようになっていたのだ。それでもアテネオリンピックでは注目されアスリートのひとりであったが、その故障が災いして一次予選で惨敗する。2005年の世界選手権では、決勝に進みながらレース中に再び肉離れをおこし、歩いてゴールするという屈辱を味わう。ジュニア時代の快挙からジャマイカ国民の期待が大きかった分だけバッシングも激しかったようで、一時期ボルトは非難に耐えきれず陸上をやめようかとまで思い詰めたという。しかし、このときのコーチ、グレン・ミルズ氏の決断が素晴らしかった。三年の歳月を費やし、故障を克服するためにボルトの肉体を徹底的に改造しようと決断したのである。

 

ボルトは、身長195センチ、体重94㎏と陸上の短距離走者としては大柄過ぎる上、「速く走る」という点においてはそのフォームに決定的な欠陥がある。両肩を上下させ、左右に大きくぶれるのである。なぜこのような走りになるのか。ボルトにはそうならざるを得ない肉体的欠陥があった。彼の脊椎は先天性側彎症のため、腰椎が右側に側彎しているのだ。脊柱が曲がっているため、努力しても左右にぶれない走りをするのは不可能で、左右に体を揺さぶりながら不均衡なバランスを制御していたのである。この病気のため、歩幅に左右差が生まれることになる。ボルトの走っている時の歩幅は右が259センチ、左が279センチと20センチも差がある。このズレが特に右の大腿屈筋群に大きな負担を与え、そのため前述のように何度も肉離れを起こしていたのだった。

 

サッカー選手が大腿屈筋群の肉離れを起こすことが多いと知ったコーチは、バイエルン・ミュンヘンのチームドクターのもとにボルトを送り込み、肉離れを起こさない大腿屈筋群の強化を3年に渡り徹底的に行わせた。ボルトはこの努力により陸上選手としては決定的とも思える欠陥を逆に強靭な脚力に変えることで克服していく。強化された下半身の筋力は、走るとき左右のぶれることで生まれる鞭がしなるようなエネルギーを生み、世界一の走力を手に入れることに成功した。もともとボルトは200m走と400m走の選手であり、コーチは故障がちなボルトに100m走は負担が大きすぎると考えていたが、どうしても走りたいというボルトにコーチはゴーサインを出す。2008年のことだ。

 

ニューヨークで開催された100m走で、当時の世界新記録9秒72を記録し見事に優勝する。100m走に本格的に参戦後し僅か5戦目であった。2008年8月16日、世界の人々をあっと言わせる出来事が起こる。北京オリンピック陸上男子100m走決勝で、自らの世界記録を0秒03上回る9秒69の世界新記録(当時)で圧勝したのだ。レースでは中盤から他選手を圧倒し、最後の数歩を両手を広げ軽く流して走り、フィニッシュの際も胸を手で叩く程の余裕を見せた。この日の出来事は、記録のみならず、走った後に見せた月を射るようなパフォーマンスと共に世界の人々の記憶にも残るものとなった。

 

そして今年のロンドンオリンピック。不調を伝えられていたボルトではあったが、見事に決勝に照準を合わせ、好タイムでオリンピック100m走、200m走、そしてリレーで2連覇を果たす。「伝説の男になる」が彼の口癖であったが、当分の間オリンピック史の中で、短距離走と言えば、まず最初にボルトの名前が登場するのは間違いがない。

 

脊椎は、前後に生理的に湾曲しているが、通常左右の湾曲は微々たるものだ。側彎の原因の特定ができているものとしては、胎生期の異常による先天性側彎症、神経原性側彎症、筋原性側彎症、マルファン病に伴う神経線維腫などによる間葉性側彎症、外傷性側彎症などがある。ボルトの側彎症がどのタイプに分類されるものかは不明である。パーキンソン病は四肢および体幹部の筋肉の固縮が主症状であるため、加齢の変化も相まって前腕が進む患者が特に女性に多い。進行すると固縮で歩行障害が起こることに加え、前腕によりさらに歩行困難になるケースが少なくないが側彎はあまり起こらない。

 

著しく脊椎が変形し、顔の奇形も伴った男の孤独と悲しい恋の物語を描いた名作映画に「ノートルダムの傴僂男」(ウイリアム・デターレ監督)がある。この映画は名作の呼び声が高く、リメーク版も作られているが、最近では、少し趣を変えてディズニーアニメにもなっている。ルイ11世の治下のパリの話である。醜い容姿からか捨て子であった傴僂で片目のカジモトは、ノートル・ダム寺院の僧侶の慈悲を受け、鐘守として生活するようになる。

 

ある時ジプシーの娘エズメラルダが、禁を破ってパリの市中にやってくるが、役人に追われる身となり、ノートルダム寺院に逃げ込む。そこでカジモトと触れ合うようになる。あるとき、いわれなき罪でカジモドが広場で刑に処せられることになるが、民衆が興味本位で拷問の様子を見守る中、水を渇望するカジモトにただ一人水を飲ませたのはエズメラルダであった。心も荒み獣のようになっていたカジモトにも初めて人間らしい感謝と、異性として淡い恋心に似たような感情が生まれる。結局最後はカジモトが危険が迫るエズメラルダを守り死んでいく。

 

醜い容姿に生まれたが故に親に捨てられ、醜い容姿であるが故に心も荒み不当な迫害を受けた男が、人生の最後にジプシーであるが故に不当な扱いを受けた美しい女性を守り死んでゆく。世の中はいつの時代も不条理の塊であり、何ともはかないものであることを感じさせる映画である。

Copyright© Department of Neurology, Graduate School of Medical Sciences, Kumamoto University.