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「裸足の季節」- 男尊女卑の社会

  • 2016.09.1

低開発国ほど、女という性が商品となり労働力の源となる。10年ほど前、「女は子供を生む機械」と発言し大臣の椅子を失った輩がいるが、女性は遥か昔から絶えず男の論理に支配されている。その最たるものがアフリカの国々で行われている、女性器の切除(female genital mutilation: FGM)である。WHOによるとエジプトでは、既婚女性の約90%以上が女性器の切除を受ける、という衝撃の事実が明らかになっている。ジブチ、エジプト、ギニア、ソマリアなどの中北部アフリカでも同様のことが行われているという驚くべきデータを公表している。

 

女性器の切除とは、彼の地で儀礼として行われている風習で、女性の外性器(クリトリス、小陰唇、大陰唇)のすべて、または一部を取り除くことをいう。この手術で性感帯が取り除かれるため、女性の性欲が減退し、結婚前の処女性を守ることができるとされているが、この手術は出血など命の危険も伴う。通常9歳から12歳の初潮を迎える前に行われているというから驚かされる。先進国ですら性器を切り取る手術は大変な危険を伴うことは言うまでもないが、こうした発展途上国では多くの場合医師資格を持たない助産婦がカミソリなどを使って不衛生な環境で行われているため、手術中に大量出血や感染症で死亡するケースが後を絶たないという。この手術は出産の苦痛を取り除く、という大義があるらしいが、こうした国の妊婦の出産時の死亡率は先進国の約200倍である。女性器切除の影響かどうかは定かではないが、一因である可能性は高い。

 

しかしこうした状況にもかかわらず、エジプトで行われた調査では、50%以上の民衆は「伝統的な風習なので、実施に賛成」と答えているという。何ということだろう。恐らく長く続いた風習の中で人々が当たり前の行為として疑問に思わないということであろうが、これは明らかに性的暴力でありWHOなどが啓発活動を行わなければならない。

 

映画、「裸足の季節」(デニズ・ガムゼ・エルギュヴェン監督)はトルコの首都イスタンブールからはるか離れた海岸沿いの田舎町が舞台であるが、アフリカで行われている女性器切除とまでは行かないまでも、男性社会が作り上げた、閉鎖社会で起こっている女性に対するセクシャルハラスメント、性暴力が描かれている。トルコはイスラム文化をもちながら中東諸国の中では比較的開かれた西欧型の社会というイメージがあるが、どうして未だにその閉鎖性は目を覆いたくなるような実態があるようだ。イスタンブールは確かに比較的開かれた地域なのかもしれないが、田舎では映画そのものの姿なのかもしれない。実際、映画のエピソードはエルギュヴェン監督が見聞きしたことが描かれているという。

 

13歳のラーレには4人の姉がいる。長女のソナイ、次女のセルマ、三女のエジェ、四女のヌルだ。両親は10年前に交通事故で亡くなっており、それ以来、祖母の家に引き取られている。そこには口うるさい祖母と叔父エロルがいた。話はラーレたちが慕っていた女教師、ディレッキ先生がイスタンブールの学校へ転勤するため、学校を去っていく場面から始まる。

 

その日は帰りに、姉妹揃って同級生の男の子たちと一緒に海岸へ行き、騎馬戦をして遊んだが、彼女たちは開放的な気分になり男子の肩に乗り、海辺ではしゃいだ。ところが自宅へ帰ってみると祖母が激怒して彼女たちを待っている。「男の首に股をこすり擦り付けるようなふしだらな行為をしていた」というではないか。偶然その出来事を見た隣に住むおばさんの密告である。性には厳格で、古い風習の中で生活してきたこの村にあっては結婚前の女性が男性と仲良く遊ぶことすら許されない。増してや「股間を男の首にこすりつけるなんて」。このような行為が村人に知れ渡ると結婚できなくなると祖母は怒り心頭である。五人は激しく言い返すが、祖母は彼女たちを部屋に監禁してしまう。そこへこのことを知ったエロルも帰ってきて祖母以上に激怒し、暴力を振るう。こともあろうに翌日、ラーレ以外の4人の姉は処女であるかをチェックするため産婦人科にまで連れていかれる。

 

この日以来彼女たちは学校に通うことすら許されなくなり、おしゃれな服やアクセサリー、携帯電話やパソコンなど現代的なものは全て捨てられてしまう。さらにある事件をきっかけに祖母はテレビまで観ることができないようにしてしまう。化粧することも許されず、着る服は控えめで地味な服ばかり。学校に行くことさえ禁止された彼女たちに課せられたのは“花嫁修業“だった。「女は勉強なんてしなくていい。貞操をひたすら守り、男にかしづき子供を産め」ということなのか。祖母と叔父は「傷ものにならないうちに」嫁がせようと次々にお見合いをさせ、長女、次女と結婚の縁組が行われ、家を離れていく。

 

この映画では笑止千万なシーンが映し出される。ソナイが結婚して初夜を迎えた夜、性交渉が終わった頃合いを見て、シーツに出血があったかどうか母親が確認に来るではないか。はっきりした出血がみられなかったソナイは、そのまま婦人科に連れていかれて処女の確認を受けさせられる。余りにばかばかしい「儀式」に、自暴自棄となったソナイは、医師の問診に「沢山の男と寝た」とうそぶいてしまうシーンは見るものの共感を誘う。結果は「白」ということになるのだが。三女のエジェは、叔母の家に軟禁されているうちに叔父エロルから性的虐待を受け、結婚話が進行する中で、ついに生きていく意義を見出せず、自暴自棄になり銃で自殺してしまう。

 

遂に「もうここには居られない」と思ったラーレは四女のヌルに、いっしょにイスタンブールへ行こうと話を持ちかける。ラーレはXデーを想定して何度も脱走のシュミレーションを繰り返す。そんな中、叔父のエロルは、今度はヌルにまで性的暴行をしようとする。二人は、祖母と叔父の監視をかいくぐって何とか家を脱出し、イスタンブール行きの長距離バスに乗り旅立つことになる。そこにはラーレが最も尊敬するディレッキ先生がいたのだった。この映画は二人が遂にイスタンブールに辿りつき、ディレッキ先生に再会する場面で終わる。

 

この映画を観ていると、ボーボワールの「女に生まれるのではない。女になるのだ」という言葉を思い出す。生まれた時は男と平等であったはずの女が、たったY染色体が持つ80足らずの遺伝子の違いから不当に男社会で支配されている現実は、女が優位に立つ仕組みを作り上げたスウェーデンで暮らし、ずっと妻に支配?されているような自分にとっては不条理であると感じる。トルコですらそうなのだ。もっと封建色の強い中東やアフリカの惨状は想像に難くない。

 

この映画はわが国でも爆発的にヒットしたイギリス映画「小さな恋のメロディー」を思い出させる。メロディーという女の子に恋に落ちたダニエルたち小学生が、既存の大人社会に宣戦布告し、戦うシーンで終わる痛快な映画だ。当時ダニエルを演じた主演のマーク・レスターの少年らしい可愛さが日本中を席巻した。

 

2年前イスタンブールを訪れたときには、それほど危険な感じもせず、東洋と西洋文化の合流地点であるかの地の異文化を堪能したものだ。当時ガイドについてもらったトルコ人の女性は確かに、依然トルコには封建的な文化が残っていると話していたが、ここまでとは想像できなかった。シリアの隣国であるトルコはイスラム国の台頭やロシアとの関係悪化の中で、政情不安定な状況が続いている一方で、インターネットや携帯、テレビから急速に入ってくる西欧文化とどう対峙したらいいのか模索しながら苦しんでいる。この映画はそのことも伝えている。

 

グローバル社会の中で突然新しい文化に遭遇すると人はそう簡単にそれを受け入れることができない。それを可能にするものは、教養であり教育に他ならないが、戦火の中にあるこうした地域の子供たちはそれを享受できる環境には程遠い。世界は恐ろしい勢いで負の方向に向かって墜ちていっている気がしてならない。

Copyright© Department of Neurology, Graduate School of Medical Sciences, Kumamoto University.