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「君の名は」- 既視体験(デジャブ)-

  • 2016.10.1

飛騨の山奥の過疎の村である。丁度諏訪の町のように、町の中心に湖があり、その淵を囲むように集落がある。その村には三葉という、快活な高校生が住んでいる。スマホやテレビから伝わってくる都会の刺激的な映像をよそに、この田舎の村には喫茶店もなければコンビニもない。友達には恵まれているものの単調すぎる毎日に思春期を迎えた頃からずっと嫌気がさしていた。映画「君の名は」(新海誠監督)の話である。1000年ぶりとなる彗星が日本に近づいている。さえぎるビルの光も建物もないこの村では星は飛びきりきれいに見えるはずだ。ちょうど日本に最接近する日は村祭りの日になっており、村人はそれを楽しみにしていた。三葉には四葉という可愛い妹がいるが、小さい頃、母を病気で亡くしており、祖母と暮らしている。宮永家は1000続いているという神社の宮守をしており、この姉妹は時折巫女役を務めている。一方、父のほうは母の死を契機に、神主などで一生を終わりたくないと祖母と対立し、家を出て今はその村の村長をしている。

 

日々鬱々とした時間が流れる中で、「来世は東京のイケメン男子にしてくださーい」。思わず叫ぶ三葉であった。そんなある夜、彼女は自分が男の子になった夢を見る。見慣れない部屋、知らない父親、新宿の高校の見知らぬ友人。戸惑いながらも、学校にたどり着き、男友達と話し、放課後はレストランでのアルバイトをする。そこにはその高校生(瀧)が思いを寄せていた綺麗なミキ先輩がいた。男の子になって念願だった都会での生活を思いっきり満喫する三葉。それは不安ではあるが目くるめくひとときであった。その日はそれで終わった。一方、新宿で暮らす男子高校生の瀧も、同じ日、奇妙な夢を見た。行ったこともない山奥の村で、自分が女子高校生になって会ったこともない祖母と妹と朝食を取り、知らない友達と通学し、授業を受け、楽しく話しているのだ。その日から彼らは週に何日か同様の体験をするようになった。もとに戻った時、前日のことをまったく知らず、辻褄が会わなくなるのを防ぐため、お互い起こったことの日記を詳細に書き合うことになった。

 

ところが、ある日を境にして、そうした現象が全く起こらなくなってしまう。不思議に思う瀧であるがそれらの日々のことが忘れられず、記憶を頼りにその村のスケッチを書いてみることにする。募る思い。飛騨の写真集まで買い込み、それが何処なのか調べるがわからない。ついに瀧は意を決して飛騨への旅に出ることにする。そこにはミキ先輩もついてきてくれた。宛てもなく彷徨った末、偶然入った田舎のラーメン屋のおじさんに、瀧が描いたスケッチを見せたところ、それは自分が住んでいた村だという。そこで瀧は衝撃的な事実を耳にする。何と何年か前のお祭りの日、彗星の破片がその村を直撃し、村人数百人が犠牲になったというのである。何とか村に駆けつけた瀧は、高台から思いもかけない光景を目にする。彗星の衝突で湖に新たな窪みができ、丸かった湖がひょうたん型になっていたのである。

 

瀧は神社の御神体が祭られている山奥に行く。そこで彼は内から聞こえる声を頼りに三葉の心を探し出し、彼女に話しかける。「祭りの日、彗星が村を直撃し、大変なことになるんだ」。そう三葉に伝えると時間は祭りの日にフラッシュバックする。三葉は、そのことを友達に話し、何とか信じてもらい、村人を安全な場所に避難させようと死力を尽くす。それは、絶望の淵の中でも村人と村を守ろうとする、宮司の家に生まれた三葉の心からにじみ出る思いでもある。

 

何年かの時が流れる。高校生だった瀧は、大学生になって就活をしている。彼が新聞を繰ってみると、彗星が三葉の村に落下した日、村人は安全な場所に避難し、多くの人が九死に一生を得た、と書いている記事が載っている。就職活動の結果は今のところ十数連敗。でも希望は捨てない瀧。一方で三葉のことはずっと気になっており、雑踏や電車の中で三葉を探す。それは三葉となって行動した時に感じた三葉という女性のもつ可愛さ、純朴さに対する恋心以外の何物でもない。「会いたい」。瀧は心からそう思い思い続ける。

 

電車同士のすれ違いざま、雑踏の中で、何度か「三葉だ」、と思うのも束の間、電車は去っていく。この映画は、最後にある路地の石段で三葉に似た女性とすれ違った瀧が思い余って振り向きざまに「君の名は」と問いかけるところで終わる。映像の美しさ(夜空に向かって彗星の放つ光の美しさは息をのむ思いがする)、話の展開のテンポの良さ、切ない思いの描写、緊迫感、ラブストーリーを描く映画に必要な要素が詰まった、アニメーションの良さも満喫できる秀逸な映画である。きっと自分と伴侶も、実はその昔夢の中でいく度か出会っていて、運命の赤い糸で結ばれていたのでは、と思いたくなるような説得力もある。

 

既視感(デジャブ)という言葉は、久しい以前から文学や映画などに描かれており、心理学や脳神経科学の分野でも研究が行われてきた。洋の東西を問わず人間が体験する共通の感覚で、知らない土地に行った時に一度みた景色ではないかと思ったり、夢に見た知らない光景を現実に体験したこととして感じることをいう。この映画では、最初にみた夢は知らない土地での体験であったが、繰り返すうちに現実のものと思えるようになり、ついには確信に変わっていく話の展開も、デジャブの局面を表わしている。

 

一般的なデジャブは、「確かに見た覚えがあるが、いつ、どこでのことか思い出せない」というような違和感を伴う場合が多い。フロイトをはじめ過去の研究者はこうした体験は夢に属するものであるとしてきたが、病気と関連づける考え方もある。思考の統一性のなさに加えて幻視や幻聴が統合失調症の診断の根拠になるが、この病気になる初期段階でこのデジャブを訴えることがあるとされている。また感情や記憶を司る側頭葉のてんかん症状を持つ人にこうした現象が現れることも知られている。ただ脳のどこの神経細胞がこうした現象をつかさどっているのかはいまだに解明されていない。

 

この映画の面白さのもう一つは、タイムマシンのように時がスリップするところであるが、ホーキンス博士はタイムマシンの存在を見事に否定した。「これまで我々は一度も過去の人間や未来からの観光客に会ったことがない」というのがその理由、論拠である。昔、「タイムトンネル」というNHKのドラマがあり、時の間に落ち込んだ研究者が、ジンギスカンやリンカーンに会ったりしながら、戦や事件に巻き込まれる話だ。多くの科学好きの少年たちは、いつかタイムマシンが人類の英知によって生まれることを確信した。1980代に登場した「バック・トゥー・ザ・フューチャー」もまたタイムマシンであるデロリアンを作ってみたいという衝動を掻き立てた。

 

人間には不可能を可能にしようとするあくなき願望と期待があり、失敗の連続である日々の生活の中で、ターニングポイントである瞬間からもう一度やり直すことができたらと願う気持ちがある。受験、就職、結婚・・・。人生にはいくつものターニングポイントがある。「プロポーズ あの日に返って 断りたい」。何年か前のサラリーマン川柳の優秀賞をとった作品だが、あながち笑えない状況の描写に選者は拍手を送った。

 

脳科学の研究の進歩も目覚ましく、アルツハイマー病やパーキンソン病の原因タンパク質は明らかにされており、根本治療の開発もあと一歩のところに来ているが、夢や心の解析は今一歩進んでいない。こうした研究は、「その時」をリアルタイムにとらえ解析しなければならないが、今のところその手段は脳波関連の電気生理、MRIやPETなどの脳画像診断に限られている。もっともヒトがヒトを純粋に愛したり、思いやったりする感情を科学的に完全に説明できるようになってしまうとそれを第三者が制御できるようになり、思わぬ事件が起こる可能性もある。なかなか、難しい問題が潜んでいる。

Copyright© Department of Neurology, Graduate School of Medical Sciences, Kumamoto University.