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田中耕一先生からの遅れてきた「手紙」

  • 2007.03.1

言うまでもなく学者、研究者にはいろいろなタイプがある。一番始末が悪いのは、若い頃はひたむきに研究をしていたにもかかわらず、いざ教授や研究所長になった途端、それまでの鬱積した思いが吹き出してしまうのか、ひたすら権力を志向するようになり、所属学会や組織を牛耳ろうとするタイプである。こうした人々はいつの間にか研究者ではなくオーガナイザーとして生きることにのみ生きがいを感じるようになってしまう。今のサイエンスに対する国の支援体制は(これは典型的なアメリカ型の模倣だが)、まさに選択と集中が行われ、確かな研究というよりは、話題性の高い研究、ネームバリューの高い研究者に巨額の研究費をつけようとする傾向がある。韓国のES細胞実験での捏造事件、大阪大学での生化学データーの捏造事件は次第にその全貌が暴かれるにつれてこうした研究環境の下で陥ってしまう権力志向型研究者の危うさを露呈し、空恐ろしい、という気持ちを抱かせる。教授になることが、研究をさらに発展させるための手段ではなく、目的となっている人にはこうした危険が伴う。巨額の研究資金と名誉を手に入れるため、特に韓国の教授は、細胞という未だにその機能の大部分が明らかにされていないミラクルな生命体を扱うのをいいことにして、「このようにして実験を行うとこうなる」とコンピュータグラフィックスまで駆使してデータを捏造し、世界に情報発信し、名誉と巨額の研究費を手に入れた。第三者はその作業行程が複雑であればあるほど、信じざるを得ない。これらの捏造データは、再現性がないのでいずれはばれることになるが、にもかかわらずこうした研究者たちは、何とか何年かしのげば、後は何とかなるとでも思っていたのであろうか。

 

私はこの秋、医用マススペクトル学会という小さな学会に招かれ、名古屋に行った。抄録では、アメリカ人、XX教授というこの分野の草分け的存在である研究者の講演の司会を田中耕一先生がすることになっていたので、小さな学会でもあり、なんとかご挨拶ぐらいはできるのではないか、とかすかに期待して望んだ。「島津製作所の田中耕一です。XX先生のご講演の司会をさせていただきます。まず最初にお願いですが、写真は撮らないでください。私、マスコミ恐怖症になっておりまして」。お元気そうな笑顔の中からの一声ではあったが、ノーベル賞を受賞した頃の映像しか知らない私には、髪のごま塩まじりの白髪が印象的で、先生がこの何年間か、ずいぶんと世間の喧騒に煩わせられながら生きて来ざるを得なかったことが一瞬にして窺い知れた。

 

田中先生がノーベル賞受賞後、各方面から引く手あまたの状態の中で今でもそんなに大きな会社ではない島津製作所に残り、一研究員としてサラリーマン生活をされているのは有名な話である。講演などには極力出かけず、世間の喧騒をよそに、夢を求めて京都で努めて静かに研究をつづけようとされている姿には共感が持てる。この学会でも司会をされた後はずっと会場の隅で、目立たぬように静かに一般演題を聞いておられた。田中先生と親交のある某大学の教授に聞いたところでは、「田中先生は、講演料、司会料を一切受け取らない。今日のこの会もXX教授とは長い付き合いだからと無料で司会の労をお取りになった」。20年近く前の話になるが、ボストン在住のある日本人のノーベル賞受賞者に東京で講演してもらうのに日本生化学会は500万円払ったという話は有名である。どちらがどうだという気はないが、あまりの違いに驚かされる。

 

私は、休憩時間に思い切って田中先生に話しかけに行った。「熊本大学の安東でございます。先生のお造りになった質量分析装置を使って熊本に大きな患者フォーカスのある遺伝性疾患の診断スクリーニングをし、肝移植で救っている研究者です。先生には感謝申し上げます」。「あ、そういえば何かそんな疾患がありましたねー。使っている機械のタイプは島津の何ですか」。先生はどこまで行っても島津の社員であるが予想外の質問に私はたじろいだ。「、、、」「あ、それはきっとコンパクトタイプですね」。私が名刺を差し出すと、田中先生も財布から、極自然に「島津製作所、質量分析部門研究所長、田中耕一」と書かれた名刺をくださった。「先生、今日は何時ごろお帰りですか」「えー、時間の許す限り、夕方くらいまで」。私の講演は4時に始まる。もしかしたら私が田中先生の作ったMALDI-TOF-MSでFAP患者の診断、病態解析をしている実際の話を先生にお聞きいただけるかもしれない。私の胸は高鳴った。

 

第何号であったろうか、私は「拝啓、田中耕一先生」と題してこのコラムにエッセーを書いた。「拝啓、田中耕一先生。この度は、ノーベル化学賞受賞、大変おめでとうございます。私が先生にお手紙を出そうと決意したのは、先生がNHKのドキュメンタリー番組で述べておられましたコメントに感激したからでございます。「私の研究で、なんとか苦しんでいるヒトを救いたい。ヒトにもし仮に天寿というものがあるのなら、私の研究で、すべてのヒトが病気で苦しまず、臨終の日まで楽しく暮らせる、そんな日が来るように研究し続けたい」。誠に僭越ですが、私はその言葉がその日以来頭から離れなくなりました。これほど端的に、しかも平易な表現で、私どもの医学研究の究極のゴールを示してくれた言葉はありません。(中略)。私はある難病、家族性アミロイドポリニューロパチー(FAP)の診断、治療研究をひたすら行ってまいりましたが、私の目の前で、治療の甲斐もなくお亡くなりになる患者の姿を目の当たりにして参りました。日々の診療、研究で慌しく過ぎる日々の中で、目の前の患者さんを何とか救いたいという思いがすべてのようになっていました。先生のお言葉は研究者として忘れてしまっていた視点を思い出させてくれました。もうひとつ、私が先生にどうしてもお手紙を出したかった理由がございます。それは先生がお造りになり、ノーベル賞受賞の直接の理由となった質量分析装置をFAPの診断のために役立てさせていただいているということから、どうしても一言御礼を申し上げたかったのでございます。」我々の研究グループでは、ノーベル賞受賞の年から遡ること7年前からこの器械を用い診断活動をしていた。

 

私の持ち歩いているコンピュータにはいろいろな講演のスライドを保存しているが、思い切ってこのくだりを書いた本誌のページをスライドにしたものを取り出し、私の講演のスライドの中に入れ込み講演時間を待った。

 

予定の時間より少し遅れて私の講演が始まった。田中先生は確かにお聞きになっている。「、、、、。FAP患者が田中先生の発明のお蔭で簡便に診断がつくようになり、肝移植、そして重症肝疾患患者がドミノ肝移植で救われるようになったのです。ところで、このスライドに書いているコラムの内容をそのままお手紙にして田中先生にお送りしたのですが、当然のことながら、お返事はまだありません。ノーベル賞受賞後は超ご多忙なのは当然ですから、、」。会場は爆笑の渦に飲み込まれた。講演の後いくつかの学術的質問が終わったあと、びっくりすることが起こった。それまでどの演題にも質問もコメントもされず静かにお聞きになっていた田中先生が手を上げたのである。「質問ではありませんが、ひとこと申し上げます。先生にお返事を差し上げることができず申し訳ありません。あの頃は沢山の手紙が来て、、、。手紙を書くと田中耕一から手紙が来た、といって触れ回ったり、マスコミに取り上げられたりして、、、。それで私は手紙を書くのを一切やめました。申し訳ございません」。

 

ひたすら一研究者として、上記のような夢を追いかけてきた田中耕一氏にとって、ノーベル賞受賞後に起こった環境の変化は激烈すぎたことはいうまでもない。私は以後の講演で、このジョークだけは使わないでおこうと思っている。ただ「田中耕一」と書かれた名刺は、大切に保存して、我が家の家宝にしたい。私の研究の原点を思い起こさせてくれるからである。もっともこうしたやからが居るから田中先生のような純粋な学者の日常は侵害され続けるのだろうとは思うのだが。

Copyright© Department of Neurology, Graduate School of Medical Sciences, Kumamoto University.