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「タイヨウのうた」-色素性乾皮症

  • 2007.04.1

太宰治は小説「斜陽」やそのほかの記載のなかで、「ヒトが蒙るこの世のありとあらゆる肉体的な苦痛の中で最も我慢できないのは痛みではなくかゆみである、 かゆみだけはなんともし難い、と書いている。太宰がいったいどのような皮膚疾患を患いこのような結論に達したのかは知る由もないが、きっと一度は激しい皮膚疾患により、どうしようもないかゆみに苦しんだのであろう。私は、太宰のこうした感性が大変よく理解できる。

 

小学校2年生のときであった。その年の春、母は家の裏庭にある梅の木にたわわに実った梅の実を摘み、梅酒を作った。大きな瓶に沢山の梅の実と焼酎、砂糖を入れ、私たちは梅と酒の香りが程よく溶け合う日を待った。果たして秋となり、家族で試飲会となったが、糖分を豊富に含んだその飲み物は、飛び切りおいしい子供のための果実ジュースのような味がした。私は、本来は酒であり、アルコールが主な成分であることをすっかり忘れ、この飲み物のあまりのおいしいさに、ついついかなりの量を飲んでしまった。ところが、その夜、それまでの私の短い人生の中で経験したことのないような激しい免疫反応が私を襲ったのである。私は寝入って間もなく全身の耐えられない激しいかゆみとともに飛び起きた。このとき、私の身体はアルコールに対して激しいアレルギー反応を起こす体質であることを初めて知るに至った。口腔内も含め全身に蕁麻疹ができ、私の身体の皮膚も、粘膜もピンク色に腫れ上がった。その夜は、全身の耐え難いかゆみの刺激のため、母にすがってすすり泣き続けた。母は一晩中全身「東海道四谷怪談」のお岩のようになった私の身体を抱きしめ、優しくさすり続けてくれた。晩秋の寒い日であったが、朝の5時頃だったであろう、母の身体の暖かさにうとうととし始めたと思ったら、1時間もして、また激しいかゆみとともに目が覚めた。あの日の苦しさは今でも忘れることができない。大学生になって、「あれは何かの間違いであろう、きっと梅が変な具合に腐敗したためにあんなひどい目にあったのではないか」、と勝手に決め込み、初めてのコンパで酒を飲んでみたが、再び全身に蕁麻疹ができた。今度は睾丸までも蕁麻疹で腫れあがったのには驚いた。大学病院の救急外来に駆け込み強力ミノファーゲンCを打ってもらうと、それまでの蕁麻疹が嘘のように消え、かゆみも引いたのにもまた驚いた。注射を指示した医者がキリストに思えた。こうしたトラウマは一ヶ月もすると消えてしまうものだ。私は1-2ヶ月の周期で酒を飲み、再び救急外来に通うということを繰り返していた。酒がおいしかったからではない。私の酒は、愉快酒で、友達とはしゃぎだすと、ついつい飲んでしまい、酒が蕁麻疹の恐怖感を忘れさせたためだ。ところが、そうこうしているうちに私にとって信じられないことが起こった。2年生の秋になるといくら酒を飲んでも蕁麻疹ができなくなっているではないか。私は見事にアルコールに対するアレルギー反応から脱感作されたのである。ちょうどその頃免疫学の講義で習った「脱感作療法」を実践をしたことになる。それ以来、私はかゆみ、皮膚疾患からはほとんど開放され今日を迎えているが、あの秋の日のかゆみの辛さとしんしんと冷えていく秋の夜に体感した母の懐の暖かさは忘れない。

 

雨音薫は16歳の高校生であるが、色素性乾皮症で苦しんでいた。日光に当たると皮膚症状が悪化するため、日中の屋外での活動を極力制限し学校に行けずにいた。唯一の楽しみは夕食を取った後夜明け前まで、自分の作った曲を人影もまばらな駅前の広場でギターを弾きながら歌うことであった。それはきっと薫が見つけた、自分が生きていることを実感し、生きる意義を見つけるための唯一の手段であったに違いない。彼女は早朝に帰宅して眠りに着こうとするとき、毎日のように部屋の窓から見える、登校前に、サーフボードをバイクに積んでサーフィンに向かう高校生の孝治の姿が次第に気になるようになっていった。映画「たいようのうた」の話である。

 

二人はやがて会話を交わすようになる。明るい日差しなかでのデートもままならない二人だったが、お互いに対する好奇心が恋に育つまでにそう時間は要らなかった。孝治も彼女の歌心、恋心にのめりこむように引き込まれ、夢中になって行った。生まれて初めての恋をはぐくんでいく中で、薫は普通の女の子の明るさを取り戻していくが、色素性乾皮症は少しづつ進行し、薫には残された時間が短くなっていく。

 

紫外線は、DNAに傷をつけ、ピリミジンダイマーなどを生じさせ、異常を起こさせる。生体にはこれを除去・修復する機構があり、正常な人では細胞の遺伝子の変異を未然に防いでいる。しかしその機構に障害が起こると、その程度によってさまざまな皮膚症状が起こる。肝移植や腎移植の後、直射日光に当たることを避けるように指導されるのは、傷ついた遺伝子の修復機構が免疫用製剤の投与で抑えれることにより、皮膚がんなどの発生率が上昇するからである。薫が侵された色素性乾皮症は、常染色体劣性遺伝を呈する皮膚疾患で、強い日焼け反応、色素斑、脂漏性角化症(しろうせいかくかしょう)、基底細胞がん、有棘(ゆうきょく)細胞がん、悪性黒色腫などが起こる。当然のことながら、皮疹の部分には痛かゆさを伴う。A群~I群と亜群の10群に分類され、亜群以外では、難聴、言語障害、知能低下、角膜潰瘍、歩行障害などが起こることがある。特にA型は重症タイプで、多くは20歳までに死亡する。XPA、XPV、XPB-XPGなどの遺伝子変異が知られている。常染色体劣性遺伝を呈し、日本では出生15,000に一人、欧米では出生250,000と日本人は他の民族に比べて発生率が高い。B~G群はまれに発生する。薫の皮膚は少なくとも映画を見ている限り少女のようにすべすべしていて何の皮膚疾患も内容に見える。薫にはこうした皮膚疾患に伴うコンプレックス、わずらわしさに加え忍び寄る死の恐怖があったに違いない。

 

この病気もさまざまな研究が進み、紫外線を避ける工夫をすると皮膚症状の悪化をある程度防ぐことができることが明らかになってきた。しかし、随伴する神経症状の進行を抑えることはいまだにできない。さまざまな表現型があるが、成長するに従い歩行障害・嚥下障害・呼吸障害などが出てくることも知られている。

 

中学生の頃、同級生にY子ちゃんという、とても目元のかわいい女の子がいた。気立てもよく、私は彼女に淡い恋心を抱いていた。彼女は夏でもズボンをはいて長袖のシャツを着ていたし、夏の体育も彼女だけ長いトレパンが認められた。私は彼女の首の付け根にかすかにやけどのあとのようなあざが垣間見えるのを見逃さなかった。ある日同級生の女の子に「Y子ちゃんはどうしていつもあんなかっこうをしているのか」と聞いてみたところ、びっくりする答えが返ってきた。「Yちゃんはね、体中あざだらけなんよ」。しばらく、彼女の全身にあるだろうあざを思い浮かべては憂鬱な日々が続いた。Y子ちゃんの全身にできていた皮疹は何であったのか、今となっては知る由もないが、彼女の当時の気持ちは一体どんなものだったのだろうか。彼女は、お嫁に行って幸せに暮らしていればいいが、とふと思うことがある。

 

人は誰も衣服の下に人に言えない何がしかの秘密があるものだ。肉体的、精神的コンプレックス、怒り、悲しみを抱えて生きているものだ。はっと気がつくと、日本人死因の第二位に自殺が来るようになった。毎年3万人余りの人が様々な理由で自分から命を絶っている。未遂を入れるとどれくらいの人が絶望の淵で、生きる力を失っているのであろうか。現代社会が、そうした秘密を益々吐露できにくい構造を造っているからに違いない。

Copyright© Department of Neurology, Graduate School of Medical Sciences, Kumamoto University.