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「あなたになら言える秘密のこと」-遺伝性疾患

  • 2007.06.1

「あなたになら言える秘密のこと」(The secret life of words)は、以前、このコーナーで紹介した「死ぬ前にしたい10のこと」のイサベル・コイシュ監督が、同じ主演女優、サラ・ポーリーを擁して送り出す秀逸な映画作品である。ハンナと名乗る女性はどうも製糸工場で働いているらしい。無表情でひたすら業務をこなす。帰宅すると彼女は不潔恐怖症なのか、丹念にアーモンド入りの新しい石鹸で入念に手を荒い、一回ごとに石鹸を捨てる。何か彼女の心をそこまで追い込んだトラウマがあるらしい。

 

ある日、ハンナは工場長に呼ばれ思いもかけないことを言われる。「君は業務内容も態度も良く、雇ったことにはとても満足している。ただ、無遅刻、無欠勤で余りに働きすぎだ。これでは組合に突き上げられるから、1ヶ月休んでほしい」。空虚な気持ちでいっぱいのハンナではあったが、とにかく1ヶ月当てもない旅に出ることになる。何の目的も希望もないハンナの行き着いた先は、北海油田であろうか、海のど真ん中に浮かぶ油田掘削所であった。食堂で偶然であった職員に誘われるままに、そこで彼女は火災に巻き込まれ全身にやけどを負い、角膜傷害のため眼も見えないジョセフ(ティム・ロビンス)の看護師として働くことになる。彼女は以前看護師として働いたことがあるようだ。海上に浮かぶ要塞のような油田基地は巷とは隔絶された世界で、そこで働く人々も世間とは異なり、ハンナの心の扉は益々硬く閉ざされていくように思われた。しかし火傷の激しい痛み、発熱の中にあえぐ人間は安らぎを求めハンナに語りかけていく。ジョセフの持つ優しさ、抜群のユーモアのセンスにハンナは少しずつ心を開いていくのであった。ハンナはクロアチア人で、彼女は、ボスニア・ヘルツェゴビナの戦乱、そしてユーゴスラビアの内乱の中で、なんと敵兵ではなく十数人の母国兵士から性的虐待を受け、親友を殺されたという信じられないような過去を持っていた。ジョセフも友人の妻を奪い取った、という良心の呵責に苛まれていた。

 

この映画は心と身体の「傷」を持った男と女が言わば極限の環境の中で、他人には開くことのできなかった心の扉を開こうとする物語である。

 

疾患を患うと、どうしても閉鎖的になる。これが難病といわれる遺伝性疾患を患うとその心の葛藤は想像を絶する。自分はあと何年生きられるのか、、わが子にこの病気は遺伝するのか、兄弟は、そして生まれてくるであろう孫は、、、、。

 

早春の晴れ渡った空が暮れなずむなか、私の患者さんのYさんが穏やかな表情を残し、息を引き取った。50歳代後半だったからまだまだ若い。ご家族の了承を得て(きっとYさんも賛成してくれると思うので)少し彼女のことを書いてみたい。彼女は、私が最も研究している家族性アミロイドポリニューロパチー(FAP)患者で、1999年、発症後8年ほどたった状態で肝移植を受けた。通常FAPの肝移植は発症後5年以内に受けないと症状が進行しすぎて移植自体が死期を早める危険性があるので行なわない。しかし彼女はこれを受けた。2人のお子さんがいたからである。私は迷ったが彼女の潔い決断に同意し、移植の手はずを整えた。「先生、私はもういいから、2人の子供のために移植させてください。」この言葉に私は動かされた。あきらかに、自分のことよりも子供、そしてやがて生まれてくる孫のためという、ヒトが遺伝子に摺りこまれた母性という遺伝情報が、彼女の優しさとともに発現しているように思えた。

 

移植後しばらくは比較的経過も良く、一人暮らしをしても差し支えないほどの状態まで回復した。しかし移植後2年ほどたったころから一過性の意識障害や、眼のアミロイド沈着による症状が出始めた。それでもお嬢さんと月に一回は外来に通院してくれていた。忘れもしない2002年6月、外来を終えた私をお嬢さんとともに待っていた彼女は、ニコニコしながら、一通の手紙を私に渡した。「私が死んだら解剖してください」という言葉に、その手紙が遺書に違いないことを確信した私は、「俺、受け取らんよ。だってYさん死なないんだもん」と笑った。そう言う私に彼女は笑顔の中にも真剣なまなざしで、無理やり手紙を握らせた。初めて大学病院に入院してきたときも手術のときも、移植後の日々も、他の患者と同じように私は彼女と他愛のない会話を交わしていたが、この日は違った。今思えば、移植後も一向に全身状態は改善せず、少しずつ体力が消耗していく中で、彼女は自分の死期を察知し意を決して遺書を書いたのであろう。

 

死亡した日、Yさんの遺言はお嬢さんたちによって忠実に守られ、遺体は夜中のうちに熊本大学病院に搬送され、翌朝解剖となった。棺が大学病院を後にしたのは午後になった。雑事を終え、私が教授室の金庫に保存してあった遺書を読み始めたのは春のような夕日が差し込む頃であった。

 

「安東先生様、ほんとうに、色々と、お世話に成りました。先生と、一人の人間として、お話、出来た事、うれしく思っております。先生にお願いがあります。私が万が一植物人間になった時はすべてやめてください。私は自然死を望みます。言葉が出なかったり、反応がなくなり、人間として機能せずという様な時をなるべく持ちたくありません。ゼッタイに。その点よろしくお願いいたします。必要なら「カイボウ」にも協力いたします。これからもこの病気を解明されて行かれるでしょう。ぜひお願いします。先生のご健康とご成功をお祈りいたします。ありがとうございました。二00二年六月一日」

 

彼女は書きながらきっと涙がこぼれたのであろう。何箇所か文字が震えていた。決して美しい文章ではないが、素直な感情が決して力まず、自然な形で伝わってきて、たまらない感動を覚える。これまで遺言を頂いたことは何度かあったが、死亡する5年も前に遺書を頂いたのは始めてである。あの日の会話で、子供たちのためにも、病気の根治治療開発のためにも解剖をしてほしい、といった彼女の言葉が独り歩きしていたが、遺書の「必要なら」という言葉を考えると、彼女はできれば解剖されたくなかったに違いない。

 

Yさんは移植を受けて8年半で帰らぬ人となった。数字だけ見るとYさんの意向を受けて移植をセットアップした私の判断は間違いなかったように思えるが、この間、何度も入退院を繰り返し心身ともにストレスをかけてしまった私の選択は彼女自身のために本当に正しかったのだろうか。彼女は移植のとき、そして解剖のときと二度も、自分のためではなく、家族のため、FAP患者、そして医学の発展のために手術台に登ったような気がしてならない。言うまでもなく、医学の進歩の歴史は、病理学の進歩による、といっても過言ではない。Virchowの昔から、様々な病因、病態が患者家族の方々の勇気ある献体から生まれ続けた。いくら試験管、動物実験で得られた優れたデータでも、ヒトの身体では起こりえない現象であることを病理検体は見事に証明し続けてきた。私は、解剖の終わった夕方、教室員に「彼女の意志を生かすのは、いつものように、彼女の生きた歴史を、医学的にしっかりと論文にすることだ」と伝えた。

 

ヒトは、生まれてくるときも、死んでいくときも大変だ。大往生、という言葉はそうした中で生まれたのであろう。Yさんともう一度他愛のない会話をしてみたいと思うが彼女は天国に行ってしまったのであろう、決して煩悩あふれる下界に暮す私の夢の中には現れてくれない。

Copyright© Department of Neurology, Graduate School of Medical Sciences, Kumamoto University.