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「アルバート氏の人生」-性同一性障害

  • 2014.01.1

♪触れるまでもなく先の事が/ 見えてしまうなんて/そんなつまらない恋を/隨分續けて來たね/ 胸の痛み 直さないで/ 別の傷で隠すけど/ 簡単にばれてしまう/ どこからか流れてしまう/ 手を繫ぐ くらいでいい/ 並んで步くくらいでいい/ それすら危ういから/ 大切な人は友達くらいでいい・・・・♪。

 

中村中の「友達の詩」の歌詞である。何年か前に彼(彼女)のドキュメンタリー番組があったが、思春期の頃、この歌に歌いこめられたように、性同一性障害で悩んでいた頃のことを淡々と語っていたのを思い出す。「母が、こんな感性を持った子供に生んでしまったことについて、自分(中村)に申し訳なさを感じながら生きていた。母もずいぶん悩んだはずだ」というようなことを語っていた。「普通と違う」ということに対し人間社会はいくら進化を遂げても寛容になれず排除しようとしてしまう悲しい現実がここにはある。中村の母は男の子として生んだはずの中村が、男として生きることを拒み、同矯正しても女装を好み、女性よりも男性を好きになる姿がきっと悲しかったに違いないが、それ以上に「障害」をもって生きなければならないわが子に言いようのない、実の母としてやるせない責任を感じながら生きていたのであろう。それだけに「友達の詩」などがヒットして歌手として立派に独り立ちしている中村を見て、今は誇りに思ってほしいものだ。どうしても好きな男の子がいる、相思相愛になりたいのは勿論だが、せめて恋人ではなくても、友達でもいいと自分に言い聞かせ付き合おうとする。でもそれすらなかなか成就せず心は傷つく、というような気持ちをこの歌は素直にそして切々と歌っていて心に迫る。

 

人は、自身がどの性別に属するかという感覚、男性または女性であることの自己の認識を持っており、これを性同一性(性の同一性、性別のアイデンティティー)という。大多数の人々は、身体的性別と性同一性を有するが、稀に、自身の身体の性別を十分に理解しているものの、自身の性同一性に一致しない人々もいる。そうした著しい性別の不連続性(Disorder)を抱える状態を医学的に性同一性障害という。

 

何故一部の人だけが性同一性障害になりそれが矯正できないのかはいまだにわかっていないが、こう説明すると何となく解ったような気になるというのがホルモンシャワー説である。受精卵が誕生して後8個の細胞が作る桑実胚ができる。さらに子宮内で分化が進み全身の器官の原器ができていくが胎生7週目位までは男女の性別はない。胎生8週目位からY染色体を持った胎児は睾丸が形成されはじめ、Y染色体の中にあるSRYという精巣決定遺伝子によって精巣ができ、男性ホルモンが働き始め男性へと分化していく。もともと胎児に両方備わっていた女性、男性性器の原器がこの時期に男性ホルモンにより女性原器は退化する一方で男性原器は発達するようになる。この時、性染色体の数や性状に異変があると時として男女両方の一次性徴の判定ができない半陰陽となる。女性の場合は胎生11週目に性腺の分化がはじまり卵巣ができる。胎生20週目あたりから外性器ができる。従って超音波検査でしっかりと男女の区別ができるのはこの時期以降ということになる。この時期から同時に脳における性分化が始まるが、男性ホルモンをシャワーのように浴びた脳は人格的に男性に、浴びなければ女性へとなっていくという。gender (雄雌)とsex (男女の性)は使い分けるが、genderは生殖器からみた身体的表現型、sexは内面で区別する男女の性ということになる。

 

この時期に睾丸が形成されていても、脳が十分な男性ホルモンの「シャワー」を受けていないと脳が女性の脳になり、生後性同一性障害になるという説は説得力がある。この障害は漠然と母胎のストレスや様々なホルモン関係の薬の内服などが原因といわれているが、実際にはどのようなメカニズムで「障害」が引き起こされるのかはわかっていない。

 

映画「アルバート氏の人生」(ロドリゴ・ガルシア監督)は性同一性障害ではないが、男として生きそして、死んでいった一人の女性の物語である。舞台は19世紀、アイルランドのダブリン、ヨーロッパの当時の女性は上流貴族に生まれれば、同じ階級の男性に守られ、幸せな人生を送ることができたが、下層の家庭に生まれた場合、家政婦、ウエイトレス、掃除洗濯婦などしか仕事がないといってよかった。いよいよ食うに困ると、娼婦に身をやつすしかない。それはパリを舞台にして描かれた「レ・ミゼラブル」のフォンティーヌと同様である。アルバートは、上流貴族の私生児として生まれる。間もなく里子に出されるが、本当の父親は不憫に思ったのか、十分なお金を預け先の女性に与え、育ててもらうようにした。実の父がどんな人なのか、自分の本当の名前は何なのか、育ての親からは一切教えてもらっておらず、ずっとアイデンティティーがないような人間として育ってきた。そのうちその父が死亡し、育ての親も14歳のとき死亡し、アルバートは天涯孤独になる。そこから彼女の生きるための格闘が始まる。彼女は女性が女性として独りで生きていくのは困難であると考え、男として生きていくことを決意する。なけなしの金でタキシードを買い、ホテルの男性ウエイターとしてあるホテルで雇われるようになる。きっと彼女はまじめに働いたのであろう。転職するたびに少しづつホテルのランクを上げ、上流階級の人々にも人気のホテルであるダブリンの「モリソンズ」で働くことになって久しい。アルバートは本性を隠すため他の人との関わりを極力持たないようにして、お金をためいつか独立して店を持つことだけを夢みて働き続けた。アルバートは、泊り客からのチップなどを少しずつため、その金は今や店を買い取ることのできる寸前までになっていた。そんなある日、偶然泊まり込みで仕事に来たペンキ職人ヒューバート・ペイジ(ジャネット・マクティア)と知り合う。驚いたことに彼女もまた男と偽り堂々と生きているではないか。しかも「妻」と一緒に貧しいながら幸せそうに逞しく生きている。アルバートは、自分と同じように女を捨て生きている女性がいたことに加え、生きがいを見つけ前向きに生きている姿を見て心が大いに揺れた。

 

そんな折、若くて可愛いメイド、ヘレンに関心を寄せるようになっていくが、彼女がボイラーマンのジョーと恋仲になり、その恋の行方とともに益々彼女に益々ご執心となっていく。一方ジョーはその事に気づき、ヘレンを通じてアルバートから少しでも金を巻き上げ、アメリカに渡航する元手にしようとする。映画の最後は、妊娠してしまったヘレンと、そのことを快く思わなかったジョーとの諍いの中で、アルバートが頭部を強打し、そのまま息を引き取って終わる。なんという彼女の生涯であろうか。女性にとって圧倒的に不利な時代の中で、女性としてのアイデンティティをあえて捨て、男として生きていくうちに、抑圧された環境の中で「男の脳」が働き、若い女性に思いを寄せるようになったのかもしれない。その気持ちは映画に見る限り、セクシャルなものでは決してなく、父親のような思いであったのかもしれない。映画に共感したものとしては、捨てられたヘレンと、自分の店を持ち、最後は幸せに暮らすアルバート氏を描いて欲しかった気がする。

 

アルバートを演じた主演のグレン・クローズは、アイルランド人作家ジョージ・ムーアが描いたこのアルバート氏のキャラクターに大いに興味を持ち、まずは舞台で演じ続け、ついには昨年映画化に至った。製作・主演・共同脚色・主題歌の作詞の4役を務めるほどの熱の入れようである。グレン・クローズのものの考え方や半生を知らない私には少し理解に苦しむところがある。

 

この映画はまた19世紀のアイルランドは表の豊かな顔はほんの一部で圧倒的に貧困が支配していたことを思い知らせてくれた映画である。人の社会はいつの時代も少数の恵まれた人々と圧倒的に多くの恵まれない人々とのバランスの中で成り立っているように思えてならない。

Copyright© Department of Neurology, Graduate School of Medical Sciences, Kumamoto University.