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「思い出のマーニー」-超常現象

  • 2014.11.1

映画「思い出のマーニー」(米林宏昌監督)はイギリスの小説家、ジョージ・ロビンソンの原作をベースにアニメーション化したファンタジー映画である。原作ではイギリスの湖水地方を舞台にしているが、映画では日本の物語にするため北海道の海辺の村にある湿地帯に舞台を移している。

 

冒頭、主人公杏奈のモノローグが心に響く。「この世には目に見えない魔法の輪がある。輪には内側と外側があって、私は外側の人間。でもそんなのはどうでもいいの。私は、私が嫌い」。

 

杏奈はどうも幼い頃に両親を亡くし、血縁のない養父母に引き取られて12歳まで成長したようだ。養母は一生懸命杏奈との心の隔たりを取り払おうと努力してきたようだが、杏奈のほうは養母と打ち解けず、彼女のことを家でも外でも「おばちゃん」と呼んで「鎧」を着て生活している。喘息のような持病もあることもあり、学校は休みがちで、同級生からも疎外され、「私は外側の人間」と勝手に決め込み、自ら孤高の人であろうと振る舞っている節がある。そんな杏奈を持て余した養母は、夏休み前に、杏奈を北海道の海沿いの田舎町に住む親戚のうちに預け静養させることにする。とりわけ行きたかった訳ではない杏奈であったが、不承不承行ってみるとそこには心の温かい親切なおばさん、おじさんが住んでいた。海辺の入江からそれにつながる湿地帯まで一望できる家の二階で寝起きする杏奈は開放感を味わうことができ、あたりを散策するようになる。そしてやがてそこに佇む、誰も住んでいない古い大きな屋敷が目に留まる。杏奈はまるでデジャブ―を見たかのようにその屋敷に親近感を覚え、頻繁に訪れるようになる。ある時、誰も住んでいないはずのその屋敷の二階に金髪の少女が住んでいることを発見する。二人は自然に会話するようになり、マーニーという名前であることがわかる。友達付き合いが苦手だったはずの杏奈であったが、何故かマーニーには心を開き、二人は次第に仲良く遊ぶようになっていく。屋敷の周りに人は誰も住んでおらず、マーニーのことを知る人はいない。杏奈は不思議に思いながらも積極的にマーニーとの時間を共有していく。

 

少女同士の付き合いに限らず人間の付き合いというものは親しくなろうとすればするほど齟齬も生じる。杏奈はマーニーに水車小屋に置き去りにされ傷ついたりもするが、それでもさらにマーニーのことを思うようになっていく。しかしある時杏奈は湖水でおぼれかけ、熱をだし寝込んでしまうが、そのエピソードをきっかけにしてマーニーに会えなくなってしまう。その後、その屋敷の買い手が現れ、そこに住むことになった少女の彩香と親しくなっていく。彩香はその屋敷にあった古い日記を見つけ出してくる。それはなんと50年前のマーニーの日記だった。実はマーニーとは杏奈の祖母であったことがその日記を通じてわかってくる。近くに住みずっと何十年も湿地帯の風景画を描いていた初老の久子さんはマーニー一家のことをよく知っていた。話によるとマーニーには一人娘がいたが、杏奈を生んだ後交通事故で亡くなり、杏奈はマーニーおばあちゃんに預けられたが、マーニー自身も娘の後を追うように3年後に死亡し、今の養父母に引き取られたことがわかる。杏奈が見たマーニーは、祖母の小さい頃の幻だったのだ。一人ぼっちだった杏奈は複雑な出自のなかで、心が固まり、負スパイラルが回り、ますます悲惨な考えに陥ってしまっていたが、誰かに愛されている、ということをマーニーを通して実感し、このひと夏の経験で一回り大きくなっていく。この映画を通して杏奈とマーニーの会話の中に、自己の内面と向き合うメッセージを乗せ、画面からは思春期特有の漠然とした焦燥感や孤独感、不安感がひしひしと伝わってくる。前半の部分は話の流れが今一つつかめない部分もあるが、後半は次々に杏奈、そしてマーニーの秘密の部分が明らかにされて行き、ミステリー映画としての面白さも味わうことができる佳作である。

 

ヒトは今から700年前にアフリカで生まれ、発達を続ける脳機能から生まれた知性を武器に過酷な環境を克服し、生命をつないできた。その知性は同時にさまざまな空想、妄想を生み、死後の世界や魂の存在、超能力の可能性などを想像させてきた。実際に自分は誰々の生まれ変わりだとして、過去に存在した人物の個人情報まで詳細に述べることができるもの、ユリ・ゲラーのようにスプーンを自在に曲げたり、時を止めたり(これがトリックなのか超能力なのか未だに明らかにされていないが)できるものがいたり、亡霊が見えたり、死者と話ができるものがいたりと、簡単には科学で説明できない、かといって否定できない超常現象がいくつもある。杏奈が湿地帯で体験したデジャブ―も、あながち「ファンタジーの世界だから」と一笑に付すことができない部分もある。私も学会などで未だに見知らぬ外国の土地を訪れることがあるが、明らかに知らない土地なのに以前どこかで見たようなデジャブ―を体験することがある。

 

今、こうした現象を科学的に説明しようと世界の物理学者、生理学者が取り組んでいる。特に、脳は容易に生検ができない分、MRIやPETなどの画像研究の急速な進歩により詳細な情報が得られてきている。そうした研究の中で、テレパシーなども本当にあるのかもしれないという実験結果が得られつつある。ファンククショナルMRI (fMRI)は、リアルタイムに脳の活動性をモニターするのに有用であるが、隔離された隣の部屋に夫婦や親友の一方を隣の部屋に隔離して、他方の脳に目を通して激しい刺激を与えると、その刺激を与えた時間に一致して、隣の部屋でfMRI検査をされている一方の脳の後頭葉の視覚野に高信号が現れるという。この現象の詳細な解析は明らかにされたはいないが、もしかしたらテレパシーは本当に存在する、ヒトが進化の過程で獲得した「心」が、気心が知れた通った者同士ではテレパシーとして共有できる超能力かもしれない、と思わせる実験結果である。

 

亡霊をみて体が金縛りにあったり、背筋が凍りついたりといった心霊現象のほうは科学の力を使ってもヒトでは未だに十分には説明できていない。ただ、げっ歯類を用いた研究はかなり行われている。ラットに激しい痛み刺激を与えたり、天敵である蛇の姿を見せるなどの恐怖体験を負荷すると、ラットの背中の体温が著しく下がることが明らかになっている。脳が無意識のうちに恐怖体験を処理し、全身の自律神経反射に反映される現象と考えられる。「背筋がぞっとする」という言葉があるが、ラットの実験結果はそれを証明している。科学の進歩は日進月歩で、fMRIに代表されるように脳の刻々と変化する機能調節が画像で明らかとなるようにまではなってきた。今後更に量子のレベルまで捕まえるようになってきた科学の進歩をもってすれば、一昔前まで、後頭葉、前頭葉などと大まかに言っていた脳の部位評価が、脳の後頭葉の特定の細胞の役割まで掘り下げることのできる時代が来ると思われる。

 

ワーズワーズが詩に託したイギリスの湖水地方の美しさは私も訪れてみて実感したが、この映画は北海道のとある海辺の風景が、草木の美しさと共にアニメーションとは思えない繊細さで描かれていて息をのむほど美しい。特に月明かりに照らされた湿地帯の風景の描写は圧巻である。その中でマーニーと杏奈の心の触れ合いが暖かいタッチで描かれている。人は言うまでもなく一人では生きていけない。「生きているということは泣いたり怒ったり笑ったりすること。風や水の冷たさ、草の匂い、誰かの手のぬくもりを感じることだと思う。この映画を見てくれた人が、自分は誰かから愛されているということ、愛されていたということを思い出してもらえたら、作り手としてもとても嬉しい」。米林監督はそう語っている。映画の最期で、迎えに来た養母を世話になったおばちゃんに「母です」と紹介するシーンがある。杏奈はこの夏の後、きっとたくましく生きていったことであろう。

Copyright© Department of Neurology, Graduate School of Medical Sciences, Kumamoto University.