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「PSアイラブユー」-神経膠腫

  • 2009.10.1

「P.S.アイラブユー」(リチャード・ラグラヴェネーズ監督)という映画は、結婚後まもなく、思いもかけず襲ってきた最愛の伴侶の死を経て、その喪失感と戦いながら自立していくヒロインの姿を、決して重くはなく、かといって表面的な感傷的ドラマ仕立てでもなく、優しい視点から、上手にさらりと描いていて好感が持てる作品である。しかも若くして未亡人となったヒロイン、ホーリーを、「ミリオンダラーベイビー」で逞しい女ボクサーを演じたヒラリー・スワンクが演じるという意外性も新鮮に思えた。

 

夫婦の亀裂というものは、時としてほんのちっぽけな痴話げんかから始まるものだ。ボヤは放っておくといつの間にか大火事となり、鎮火不可能になる。この映画も、多くの夫婦が経験してきた、日常的な喧嘩のシーンから始まるが、よく見ると、一方的に怒っているのは妻のホーリーだけで、夫のジェリー(ジェラルド・バトラー)は、一見、若くていい加減そうに見えるが、妻を正面切って相手にせず、なだめたりすかしたり、おどけて踊って見せたりしながら彼女のなだめ方を十分心得ているようだ。この夫は実は意外と包容力のある男のようだ。そして最後はベッドに入り仲直りをするこの夫婦。アメリカのホームドラマでは、多くの場合よき妻、よき夫が微笑ましい家族を持ち、仲睦まじく暮らすアメリカンドリ-ムが描かれてきたが、実際はこの夫婦のように共稼ぎが多く、日々忙しため、結構あくせくした日常生活を送りながら、週末を迎えているのかもしれない。

 

夫婦というものはこんなやり取りを重ねながら年輪を重ね、あうんの呼吸ができてくるものだ。そう思いながら見ていると、次のシーンはいきなりジェリーのお別れ会となる。なんという不幸であろうか、ジェリーは脳腫瘍で短い生涯を閉じてしまったようである。愛する人との別れは辛いが、若いほどそれを受容するまでには時間がかかる。あっという間に夫を失ってしまったホリーは、当然のことながら心の整理ができないでいる。いつまでたってもジェリーの死を過去のこととして眺めることのできないホーリーは、彼が残した留守電を何度も何度も再生する。彼の声を聞いてはすぐに切ってしまう彼女の姿は切ない。何週間かの時が流れる。しかし彼女はいまだに立ち直ることができず、家の中に引きこもり、誰ともコンタクトをとろうとしなくなっていた。女が他人を気にしなくなると始末に負えない。風呂にも入らず、着替えもせず、みだしなみを整えようという気にもならない。そんな折、ホーリーのことを心配する母と妹が友人も交えてホリーの30歳の誕生日を祝おうとやってくる。ところがそのとき、どこからかバースデー・ケーキとジェリーからのボイスレターが届く。「以後、届く手紙の通りに、黙って指示に従って欲しい」愛しいジェリーの声。思いもかけない「プレゼント」に当惑するホリーであったが、翌日から消印のないジェリーからの手紙が届き始め、ホーリーはそのメッセージに従ってやっと行動を始めるようになる。次々に来る手紙には、ジェリーの服を処分するように書いてあったり、積極的に外出するように促してあったり、ジェリーの出身地で想い出の地でもあるアイルランドの田舎を訪ねる旅を勧めたりと、まるで自分がいなくなった後のホリーの心境を推し量り、至れり尽くせりのメッセージの数々がしたためられていた。まるでジェリーは生きているようで、ホリーの心も活気を取り戻し、少しずつだが時が流れるようになっていく。彼女は、思い切って新しい恋に踏み出そうとしたりもするが、これはジェリーの存在感はそう簡単にはぬぐえず、性急過ぎる結果となる。以前にも書いたが、男女の脳の構造の違いから、女性は、思い出を映像として残す能力に長けているため、愛する人の面影が残像となって心を離れない。最愛のひとが心を整理する時間もなく逝ってしまうと、以前の生き生きとした自分を取り戻すためには、その思い出の映像が長い時間とともにセピア色に変わっていくのを待つか、それを上書きできるほどの強烈な出来事が必要なのかもしれない。

 

この映画では、ジェリーが脳腫瘍で苦しむ姿が描かれず、彼の死後、ホリーがいかに前向きに生きていけるるかという点にフォーカスが当てられ、じめじめしないドラマ仕立てとなっている点がいい。

 

脳腫瘍は脳のどこにできるかによってその症状は異なる。頭痛や嘔吐は重要な症状であるが、髄膜刺激症状として、てんかんをおこすこともあり、20歳以後の初発てんかんでは脳腫瘍を疑う必要がある。 言葉が話せなくなる運動性失語、相手の話が理解できなくなる感覚性失語、半盲、計算ができなくなる、読み書きがきなくなる、知っている場所で迷子になる。記憶力が低下する、性格が変わる、など個々の症例で異なる症状が出現するため、診断が遅れることがある。

 

脳には、神経細胞とそれを支える神経膠細胞(グリア細胞)があるが、神経膠細胞から発生する腫瘍が神経膠腫(グリオーマ)である。神経膠腫は全脳腫瘍の中で約30%を占め、星細胞系腫瘍、乏突起膠腫、上衣腫、脈絡乳頭腫などに分類される。神経膠腫の中で最も多い星細胞腫(アストロサイトーマ)群は、その悪性度によって4段階に分けられる。最も悪性度が高いグレードIVは膠芽腫 (グリオブラストーマ) で、特に脳実質への浸潤性格が強く、腫瘍の周りに壊死と微小血管増生がみられ、手術での全摘出は困難で術後の放射線療法と化学療法は不可欠となる。神経膠腫の治療が難しいのは、腫瘍の浸潤性が強いこと、腫瘍細胞が単一の集団ではないこと、腫瘍細胞が抗がん剤に対する耐性機構をもつこと、放射線治療に抵抗性を示すこと、脳の血管が抗癌剤などの物質を通過させない脳血液関門をもつこと、などの理由による。ジェリーが短期間で命を失ったのは、このグレードIVの神経膠芽腫に罹患したためと想像できる。

星細胞系腫瘍の腫瘍形成や悪性化には,複数の癌遺伝子や癌抑制遺伝子の異常が関与していることが明らかになっている。グレードIIの星細胞腫では、p53遺伝子の異常と血小板由来増殖因子およびその受容体の高発現が認められ、これらの遺伝子異常は腫瘍の引き金になると考えられている。また、さらにこの腫瘍が悪性化しgrade III、さらにgrade IVの膠芽腫になると、RB遺伝子の異常、第10染色体の欠失、などが関与していると考えられている。 そのほかPTEN遺伝子の異常、p16やp14遺伝子の欠失、MDM2の高発現などが関与しているとする報告もある。治療は、前述の如く、腫瘍の可能な限りの外科的切除に加えて、抗癌剤、放射線の併用ということになるが、悪性度が高いと効果は期待できない。
かつて内科同門の先輩の葬式で、故人となったご本人の、生前に録音していた別れの言葉が流れたことがある。葬式は、セレモニーであり、特にご遺族、故人の意向が重要であるので、それを良しとしたご遺族の意向を云々するつもりはないが、亡くなった直後には、ホーリーがジェリーの留守番電話を聞くに聞けなかったように、こうした企画は遺族にも、列席者にも辛すぎるように思える。ジェリーは、早過ぎる死の宣告に、悲嘆にくれ、戸惑ったのであろうが、妻ホリーを深く愛していた彼は、思い直して短い残りの時間に妻の自立のためのストーリーを描き、そのことを十通の手紙にしたため、旅立とうとした。脳腫瘍では、脳圧亢進症状のために、悪心、嘔吐、頭痛、めまい、ふらつきなどの症状が起こることが多く、きっと大変な作業であったろう。ジェリーは、ホリーの母に託したすべての手紙の最後に万感の思いを込めてPS. I love you.というメッセージを記した。その言葉は、短期的には最初はホーリーを苦しめることになったが、結果的には、どれだけ彼女を勇気づけたかわからない。

Copyright© Department of Neurology, Graduate School of Medical Sciences, Kumamoto University.