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「レスラー」ーボクサー脳  

  • 2010.01.1

人生とは、居場所、死に場所を求める営みであると言えなくもないが、特に年齢を重ねるごとにこのことが重要になっていく。人は若い頃に一生懸命しっかりとした仕事をして良い人間関係を構築しておかないとのちにひどいつけがまわってくることになる。体力、気力、そして知力が衰えてきたとき、頼りになるのは経験、感性、友人、家族など、限られたものになるからだ。映画「レスラー」(ダーレン・アロノスキー監督)を見ていてそんなことを考えた。

 

ランディー(ミッキー・ローク)は、かつては「知る人ぞ知る」人気レスラーで、ザ・ラムのニックネームを持ち、アメリカ中の血の気の多いプロレスファンの心を釘づけにしていた時期があるようだ。20年前は、マディソンスクエア・ガーデンでの興行で、スタジアムを一杯にするほどの人気だったが、今はその影もない。プロレスはショウであることに間違いないが(映画ではリングで対戦するレスラー同士が試合の直前に技の掛け合いに関して綿密な打ち合わせをするシーンがある)、技に切れや威圧感がなければプロレスファンを引きつけることはできない。体を張って生きるプロスポーツ選手の宿命ではあるが、年老いたランディーはニュージャージー周辺でどさ回り興行をしながら、試合のない時は知人の世話でアルバイトをしないと生活が成り立たないレベルにまで落ちぶれていた。住まいはトレーラーハウス、しかも家賃も十分に払っていないようだ。しかしプロレスで稼ぐしかないと思っている彼は、興行があるとリングに登ろうとする。まさに「昔の名前で出ています」といった彼であった。

 

人は貧すれば鈍する。若いころからの不摂生も祟り、ある日のプロレス興行の後、突然気分が悪くなった後、意識不明となり、救急車で病院に運ばれることになる。どうも心筋梗塞らしい。バイパス手術を受けて九死に一生を得たランディーであったが、「もう一度リングに上がったら命の保証はない」と主治医に言われて退院となる。

 

そんな彼にも安らぎを感じることのできる場所があった。心の優しいアラフォー女のキャシディーと会うことのできる場末のクラブである。彼女は子持ちのストリッパーで、一人娘を育てていた。この孤高のレスラーも彼女の前ではつい「一人は辛い。あんたと話していると心が紛れる」と甘えたりもするが、彼女は彼に、成人した娘のステファニーに会うことを勧めた。ステファニーには、物心ついた頃から親らしいことは何もしていないし、成人した彼女にはもう何年も会っていない。どうきっかけをつかんでよいのかわからないランディーであったが、連絡をとることにした。実際に会ってみると風来坊のような生活をしてきた父から、とっくに心が離れてしまっているステファニーとは、会話も心もかみ合わない。次の機会の約束を取り付け、少しでも心をひこうと古着屋でプレゼントの服を買おうとするが、そんなランディーにキャシディーは母性本能をくすぐられ、「心」を共有するようになっていく。

 

こうなると初老の「ミスター・ロンリー」は舞い上がるものだ。キャシディーを自分のものにしたくなる。当然のように、個人的な交際を申し込むが、子供がいる彼女は「ランディーの気持ちについていけない」と冷たい口調で断ってしまう。その夜は心がすさみ、ステファニーとの夕食の約束をすっかり忘れて、行きずりの女と一夜を共にしてしまうが、やっと心を開きつつあった娘との関係も決定的になってしまった。

 

更に心のやり場がなくなったランディーは、アルバイトでもトラブルを起こし、解雇される。追い込まれ閉塞感にさいなまれるランディー。結局戻っていく場所は、リングしかなく、身体のことを顧みず試合にでることを決意する。試合の日、本当はランディーのことが気になるキャシディーは興業会場に駆けつけるが、ランディーは「あそこが俺の居場所だ」と言い放ってリングに上がっていった。予想されたことだが、リングの上で心臓病が再発する。それでも最後の力を振り絞ってロープの上から対戦相手の身体めがけてダイブするランディー、居場所と死に場所がシンクロした瞬間である。

 

年をとるということは辛いことだ。年を取ると色々な病気が起こる。アルツハイマー病は老化と関係した最たる病気の一つであるが、その発病には遺伝学的要因が関与するだけでなく、様々な生活要因、嗜好などが関与していることが明らかにされてきている。高血圧、高脂血症、糖尿病などの生活習慣病がアルツハイマー病の発症を促進することは、これまでの疫学的調査から明らかになっている。実際、高脂血症治療薬を飲んでいる人はアルツハイマー病発症の頻度が下がるとする報告もある。また男性より女性の発症者が多く、その数は60歳を超えると多くなり、85歳以上では一段と増えることが知られている。この理由としては、女性ホルモンの分泌状態との関係が深いと考えられている。実際、エストロゲンを長期に服用している人がアルツハイマー病になり難いことが知られている。このほか、アルツハイマー病の発症要因に関する疫学調査はさまざまな観点から行われている。中には、一寸首をかしげたくなるような疫学的調査がいくつもある。高学歴の人は進行が速く、逆にあまりものを考えないと発症しやすいとする記載もある。食生活では肉を好み、魚をあまり食べない人がこの病気になりやすいというのは以前から指摘されていたが、青魚に含まれるDHAに脳神経保護作用があることが明らかにされて以来、この学説は信憑性を帯びてきた。

このような中で、古くから、ボクサーを長く続けていた人にアルツハイマー病が多いことが指摘されている。病理学的研究でも、かつてボクサーだった人の剖検脳にアルツハイマー病の特徴のひとつであるアミロイドの塊、老人斑が多く点在していることが判明している。脳の外傷はいろいろな二次的な脳障害を引き起こす。世界ヘビー級チャンピオンだったボクサーのモハメド・アリ(キャシアスクレイ)がパーキンソン病にかかったことは有名である。頭を繰り返し強打されるとクモ膜下出血がおこり、これが原因で認知症を引き起こすが、これとは別にアルツハイマー病を引き起こす脳実質の変化が起こる。原因はよく分かっていないが、脳細胞周辺に微小な出血や、炎症がおこったり、脳細胞自体の激しい震盪により脳細胞がストレスを受けることにより、脳アミロイドの原因たんぱく質であるβ蛋白遺伝子の発現を誘導するシステムが作動するのではないかという仮説もある。

 

ボクサーのみならず、レスラーも大変である。新日本プロレスの三沢光春はプロレス興行中、後頭部を打撲し、恐らく急激なくも膜下出血がおこり、心停止、呼吸停止となり、帰らぬ人となった。こうした不幸な事件はそうそう起こるものではなく、この映画で紹介されるように、実際の興行では大きなけがに結び付かないようにかなりの決めごとの中で試合は行われるのであろう。しかし、最近はプロスポーツが多様化してきたこともあり、ファンを引き付けるためについつい過激な技の掛け合いに走るようである。何度もマットに全身をたたきつけられたり、飛び乗られたりしながら、レスラーの脳もかなりのストレスを受け続けていることに間違いはない。

 

ミッキー・ロークは、1980年代から映画界に頭角を現し、アクションスターとして活躍するが、アーノルド・シュワルツネッガー、ジョニー・デップ、トム・クルーズなどの陰に隠れて、ひたすらアウトサーダーの道を歩み、その後ボクサーに転身、家庭内暴力で逮捕されるような波瀾万丈の人生を送っている。監督ダーレン・アロノスキーは、そうした私生活の中からにじみ出る演技をミッキー・ロークに期待し、プロデューサーの反対を押し切ってまでこの映画に彼を起用したが、期待通りの演技をした彼は、数々の賞をゲットすることになる。

Copyright© Department of Neurology, Graduate School of Medical Sciences, Kumamoto University.