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「ブタがいた教室」-ブタとヒトの遺伝子 

  • 2010.06.1

「ブタがいた教室」(前田哲監督)は、黒田恭史という新任の小学校の先生が3年にわたり小学生とともに豚を飼育した実際の体験をもとに映画化した異色の映画である。星先生(妻夫木聡)は6年生を担当する新前の教師であるが、春、まだ新クラスがスタートして日も浅い中で、子供たちに命の大切さを教えたいと考え、ある日小さな豚を教室に抱えてくる。びっくりする子供たち。「みんな、豚を飼おう。大きくなったら食べるんだ。みんなで命の大切さを考えよう」。星先生は、この時点では、初めて行うユニークな命の教育が、後々自分自身のみならず、子どもたちまでも苦しめることになろうとは、想像もしていなかった。

 

小さい豚は確かに可愛い。これが大きくなって子供たちの胃袋に納まっているなどと想像できるのは肉屋の息子くらいなものである。しばらくして、子供たちから要望がでる。「先生、豚にニックネームつけていいですか。」星先生は戸惑ったが、結局許容してしまう。これがあと後までお尾引くことになるのは自明の理であった。Pちゃんと名付けられた子ブタは言うことは聞いてくれないが、日増しに可愛くなり、子供たちのペットのような存在になっていく。校庭の一角に豚小屋を造り、餌をやり、汚物の処理をする。豚は、あたり一面に糞をばらまくため、家で便所掃除一つしたことのない子供たちは最初は激しい抵抗感をもつが、それにもだんだん慣れていった。雨、風、台風、脱走と様々な予期せぬ出来事の中でも、子供たちは辛抱強くケアした。冬のシーズンは豚は風邪をひきやすいのでそのケアも行った。校長先生(原田美枝子)は、黙認の姿勢を貫いたが、折につけ星先生をかばってくれた。豚はみるみる大きくなっていく。そしてついに卒業も近づく。いったい豚をどう処分したらいいのかについての議論が父兄までも巻き込み、次第に大きな騒ぎとなっていった。子供たちは、短い人生ながら、それぞれの人生観の中で、必死に意見を言い合った。「ブタはそもそも食べられる運命にあるのだから、食肉センターに送って裁いてもらい、食べるしかない」「下の学年に引き続き面倒を見てもらうべきだ」中には、中学生になっても豚の面倒は見に来るからそのままで、というものまであり、クラスが大揺れに揺れた。結局、最終的には26人のクラスメンバーの意見は、「食べる派」と「先送り派」に集約され、投票が行われることになる。結果は13:13。ここでも結局結論はです、星先生の決断にゆだねられることになるが、先生は悩んだ挙句、豚を食肉センターに送る選択をしたことを生徒に告げる。泣き叫ぶ生徒。しかし、最後はそれを受け入れていく姿を描いてこの映画は終わる。

 

この映画では、26人の生徒役に手渡された脚本には物語の後半は記されていない。映画の中で学級会での子供たちのディベートが自然なのはそのせいである。オーディションで選んだ子供たちを、撮影の何カ月かの間、極力ブタと生活をともにさせたため、子供たちは豚に共感をもち、自分たちの視点で悩み、意見を言う姿が感動的である。

 

ブタは解剖学的、生理学的にヒトとの類似点が多く、また体のサイズもヒトに近いために、古くはヒトの臓器移植に使われてきた。今でも、心臓弁膜症の弁置換術に使う生体弁は、豚の弁を免疫原生を抑えるため、特殊加工したものである。そのお陰で、84歳になる父は今でも生きている。有難いことである。ヒトの疾病研究には、病態モデル動物としてマウス、ラット、ウサギのような小実験動物が使われてきたが、これでは本当の意味でヒトをシュミレーションできない。ES細胞や、iPS細胞を用いた再生医療の研究が盛んであるが、それにブタを組み合わせると様々な可能性が見えてくる。

 

さらに、クローン技術を使って自分の体に適合する臓器をつくることができる。自分のクローン胚をつくり、そこから取り出した「自分の遺伝子を持つES細胞」は「自分の遺伝子を持つ組織」に分化していく。それを自分の体にあてがえば、現在臓器移植の大きな問題となっている、ドナー探しや拒絶反応はなくなると考えられている。そのような臓器をつくる方法として、移植用臓器をブタとヒトのキメラにつくらせるというものがある。キメラとは二つ以上の遺伝的に異なる細胞からなる生物のことをいう。この場合、ブタの胚にヒトのES細胞を入れて、特定の臓器にヒト細胞が集まるように遺伝子操作を加えてブタの子宮に戻せば、人の臓器を持つブタができる。 こうした研究は、ブタをさらに小さくして扱いやすくした、ミニブタを用いて坂sんに行われている。このような視点からの仕事は、世界的な臓器不足の折、将来性のある研究である。

 

われわれ日本人は、グリンピースが海洋法を無視してまで、執拗にクジラを守ろうとする姿にはこっけいさを覚えるが、一方、牛や豚は人に食べられるために生まれ、ラットマウスは、実験に供するために生まれてきたものであり、そうした目的のためにこうした動物を使うのは自然のことだが、クジラはそうではない、とするキリスト教的価値観にはどうしてもついていけない。風俗、習慣、宗教には当事者以外が知らない長い流れと必然があるため、長い宗教の歴史の中で、お互いの価値観を共有しながら生きていかないと戦争になってしまうのは自明の理である。私の師荒木淑郎名誉教授は「酒を飲んだら、スポーツかワイ談をしなさい。決して人の悪口や宗教の話をしてはいけない」が口癖であった。私はこの言葉を酒の席で何度か思い出し、救われたことがる。

 

ただしかし、西欧人もそのことに抵抗を持って生きている人々がいるのもまた事実である。ブタも養豚場で見る者は、消して可愛いとは思えないが、映画でブタは確かに可愛い。ブタも飼う環境によって品格が違うのである。

Copyright© Department of Neurology, Graduate School of Medical Sciences, Kumamoto University.