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「スリービルボード」-わがまま遺伝子-

  • 2018.03.19

ミルドレッド(フランシス・マクドーマンド)は許せなかった。何の罪もない最愛の娘がレイプされたうえ焼き殺されるという、母親にとって受け止めようのない犯罪に巻き込まれて以来、7か月経っても警察は犯人の手掛りすら示そうとしないからだ。犯人も警察も許せない。

彼女はミズーリ州の田舎町、エビングに住む、とうに50歳を過ぎた二児の母親である。夫は19歳の愛人を作って家を出ていって久しい。娘が殺された場所は、地元の人が「道に迷った奴かぼんくらしか通らない」と言っている、人寂しい田舎道の道端である。そもそも遊んでばかりいる娘が、「ママ、車を貸してよ」と言われたとき、不満が募り「歩いて行けば」と冷たくあしらった矢先の出来事であり、そのこともミルドレッドの辛い思いに拍車をかけている。映画「スリービルボード」(マーティン・マクドナー監督)の話だ。

彼女はその場所にもともと立っていた、朽ち果てそうな3枚の大きなビルボード(広告看板)に、真っ赤なペンキを塗った広告を出すことにする。「レイプされて死亡」、「犯人逮捕はまだなのか?」、「何故なの?ウイロビー署長!」。彼女は一向に進展しない事件の捜査に業を煮やし、躊躇する広告会社の社長を説得して、この衝撃的なフレーズの広告を一年間出す契約を交わしたのだった。

名誉を傷つけられたウイロビー署長は、二人の可愛い娘と美人の妻に恵まれ、理想的なアメリカンファミリーをはぐくんでいるかに見えた。その仕事ぶりはヒューマニズムに溢れ、住民の心を掴み、人格者として地域住民から尊敬されていた。従ってミルドレッドの行為は、警察のみならず住民まで敵に回すような蛮行と思われた。署長はこの広告に絶句し、ミルドレッドに取り下げるよう説得しようとするが、彼女はそんな話をおいそれと聞くほどやわな女ではない。ウイロビー署長には秘密があった。すい臓がんに侵されており、かなり進行していたのだった。余命幾ばくもない体でも立派に仕事をしていたが、この唐突な広告は堪えた。「俺はがんを患っている。あとがない。広告を取り下げてくれないか」。「あんたの体のことは町中の人が知っているわ。死んでしまったあとじゃあ意味がないでしょう」。署長の言葉に何ら動揺することなく平然と受け答えをするミルドレッドはまさに鉄の女である。署長は、がんで苦しんでいたし、そんな折広告がとどめを刺したのかもしれない。彼はある日、家族と夕食を共にしたのち、拳銃で頭を撃ち自らの命を絶ってしまう。

署長には、彼を父親のように慕い、「愛して」止まないディクソンという部下がいた。切れやすく黒人の被害者に平気で暴力をふるうような「やさぐれ警官」ではあったが、彼は実はゲイであり、男らしい署長のことを慕っていた。署長の死を知ったディクソンは深く悲しみ、ミルドレッドの行動を許すことができず行動を起こす。広告元の会社に乗り込み、社長を窓から放り投げ、大けがを負わせる。一方、ウイロビーの死後、新しく就任した署長は、いろいろと事件を起こすディクソンをいとも簡単に解雇してしまう。

ミルドレッドの怒りの火はこんなことが起こっても消えることはない。真犯人を挙げるため、警察がきちんと操作して欲しいという思いは募るばかりであった。

ある時、別れた夫が、「みっともない広告だ。町民を敵に回すような真似はするな」と忠告しに来るが、この言葉もどこ吹く風、聞く耳を持たない。件のビルボードが何者かによって放火され、もはや修復不可能な状態になっても、彼女は決して負けず焼け焦げたビルボードにもう一度同じ赤いペンキを塗り、元通りに修理してしまう。

ある日、思いあまった彼女は、遂に深夜、警察署にいくつもの火炎瓶を投下し火災を起こすが、ちょうどそこには解雇されたばかりのディクソンが、ウイロビーの遺書を受け取りに来ていた。彼はそこで大やけどを負い、命からがら助け出される。九死に一生を得、皮膚はケロイドになるが、彼の心はこの時から変貌を遂げていく。それはウイロビーの遺書に次のような言葉が記されていたことが大きい。「警察官にもっとも大事なものは愛だ。愛は平静を導き、平静は思考を導く。拳銃はいらない。憎しみもいらない」。ディクソンはこの言葉をきっかけに、世の中の不条理に対する心のいら立ちが収まるようになり、許せなかったミルドレッドの行動も許せるようになっていく。

しばらくして火傷も快方に向かったディクソンは退院し、ある日、居酒屋で酒を飲んでいた。ところがそこで、いきずりの客が、「女をレイプして殺した」と言っているではないか。そば耳を立てれば立てるほどミルドレッドの娘の事件に酷似している。彼はその男が犯人であると確信する。さすが警察官だっただけのことはある。とっさにその男に殴り合いの喧嘩をふっかけ、血を流させ、DNAを取るため血液を採取することに成功する。彼はそのことをミルドレッドに告げ、期待を持たせるが、捜査の結果、結局娘を殺した犯人のNDA情報とは一致せず、その男にはアリバイもあることもわかり、真犯人は別人物であることがわかる。娘を殺したのはその男ではないが、極悪人を放っておいていいのか?ディクソンが得た情報を基に、ある朝、彼はミルドレッドとともにその男に制裁を加えるべく、銃をもって旅経つ。彼らが神に代わって罪を裁くのか、結果を語らないまま映画は終わる。何ともやるせない映画である。

映画を観ているものは当然、これが自分の娘だったらと思わずにはいられなくなる。犯人を「殺してやりたい」と思うのは当たり前だろうとも思う。そうした思いは、これまで子供を失い、記者会見で被害者の家族が繰り返し主張してきた共通の言葉であった。ただ、果たしてミルドレッドのように社会を敵に回してまで戦うことができる人がどれほどいるのかはわからない。

何故ヒトはこうも肉親の命を愛おしいと思うのか。果たしてそれはヒトの遺伝子に組み込まれた遺伝情報なのか。ドーキンスは生命体の行動は、すべて遺伝子によって支配されており、「わがまま遺伝子(selfish gene)が全てを突き動かしている」とする論文を書いた。彼の考えでは、遺伝子の目的は、とどのつまり遺伝子自身のコピーを増やすことであり、遺伝子は自分の遺伝子に似た遺伝子をもつ個体を助けることによって、その個体の中にある自分と同じ遺伝子コピーを守るように行動すると考えた。だから自分と最も似た遺伝子を持つ子供の命を守ろうとするのだ、とドーキンスは言う。   

働きバチは、自らは子孫を残さずひたすら女王バチのために働き続ける。ドーキンス理論でこれを説明すると、働きバチの持つ遺伝子にとっては、自身が繁殖し50%だけ自分の遺伝子をもった子を作るよりも、女王バチの繁殖を助けて共通遺伝子を持つ「仲間」を沢山増やしてもらい、それらを育てることが遺伝子コピーを効率良く増やすことにつながると考えられる。ヒトにおいても血縁を中心とした行動を本能的に起こす現象が報告されている。ヤノマモ族という部族では、争いが起こると必ず味方のなかでも血縁度の高い者に味方する行動をとることが知られている。またカナダの研究では、義理の親と子供が同居している場合、子殺しの起こる頻度は、血縁関係のある親子の同居時の殺人に比べ数十倍にのぼることが明らかにされている。

ミズーリ州と言えば、ファーガソンで白人警察官による黒人青年射殺事件が起こった地域である。この州は83%を白人が占めているが、低所得者も多く犯罪が絶えない治安の悪い州の一つとなっている。このような背景をもとにこの映画を考えると、今のアメリカ社会が浮き彫りになってくる。

実際はウイロビー署長の方がずっとヒューマニズムにあふれ、人として魅力があるのに、ミルドレッドの置かれた境遇のなかで彼女の気持ちに投射しながらこの映画を観ていくと、彼女に次第に共感していく自分にハッとするのは自分もまたわがまま遺伝子に突き動かされて生きているからなのかもしれないと思ったりする。

 

 

Copyright© Department of Neurology, Graduate School of Medical Sciences, Kumamoto University.