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「レヴェナント:蘇えりし者」-利己的な遺伝子-

  • 2017.06.30

リチャード・ドーキンスは、「我々生命体は遺伝子という名の利己的な存在を生き残らせるために盲目的にプログラムされたロボット(乗り物)に過ぎない。だから我々の体の中にはこのわがままな遺伝子により如何にして遺伝子が生き残るかの戦略がプログラムされており、生の営みは子孫を残し、その遺伝子を継代していくための営みに過ぎない」と主張した。所謂「利己的な遺伝子(The selfish gene)理論」である。1976年のことだ。あたかも遺伝子に意思があり、われわれ生命体は遺伝子という主人に服従する召使のような存在であるとするこの理論は一世を風靡し、議論を巻き起こしながら今日に至る。映画「レヴェナント:蘇えりし者」(アレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥ監督)によって描かれた主人公ヒュー・グラスは、先住民であった妻を殺されているが、そのことよりも彼女との間にもうけた自分の子供を無残にも殺した者に対する飽くなき「復讐心」を生きる原動力にして「蘇った」男である。この映画の主人公は実在したといわれており、瀕死の重傷を負いながら数百キロの道のりを踏破し、生還した彼の伝説は今でもアメリカの開拓者精神とともに残っているという。失った息子の命は戻らないことは百も承知でありながら、彼をひたすら突き動かしたものはドーキンスがいうような「利己的な遺伝子」であったのだろうか。

 時は1823年。アメリカはまだ国力も乏しく、ヨーロッパの列強の圧力を受けながら、多くの移民たちが西部に向かって開拓をしていた頃の話である。当時、まだ原野ばかりであったアメリカの北西部では、ヨーロッパで需要の大きい動物の毛皮を得て、高額な値段で売ることを目的に狩猟をする一群の男たちがいた。多くの開拓者は先住民から侵略者とみなされ、抗争を繰り広げていたが、意外なことになかには稀に良好な関係を保ちながら、共生していたケースもあるようだ。グラスがいた狩猟チームは先住民であるアリカラ族の激しい抵抗に遭い、いつ何時襲撃を受けるかわからないような状況にあった。グラス(レオナルド・ディカプリオ)は、かつて先住民の奴隷として暮らしていたことがあり、その折、原住民に受け入れられ、妻と結ばれ、一人息子ホークをもうけたが、妻は開拓民にすでに殺されており、きっと妻を深く愛していたのであろう、忘れ形見の一人息子、ホークを一人前に育てることだけが人生の目的のようになっていた。ホークは先住民の言葉しか話せない。奴隷として生活をしていた頃に言葉を覚えたグラスは、自分がいてやらないと息子は生きていけない、と思っている。グラスと息子はまるで一卵性双生児のように暮らしていた。土地勘もあり重宝がられ、息子とともにチームの一員に加わっていた。

 ちょうど一行がイエローストーンに差しかかった頃、たまたま単独行動をしていたグラスは、森の中で突然グリズリーに襲われる。彼は激しく抵抗するが、体中に傷を負い、瀕死の重傷を負ってしまう。時は冬、所はアメリカのなかでもとりわけ寒さの厳しい北西部である。とても生きていけそうにはない。いつ先住民の襲撃があるかもわからない。谷を越え、山を登り、狩猟を続けなければならない一行は、最初はグラスを担架に乗せ行動をともにしようとするが、疲労がたまりグラスが足手まといになってきて、遂に隊長のヘンリーは彼を置き去りにすることを決断する。それは極寒の厳しい環境のなかで他の隊員を守るための苦渋の選択でもあった。隊長はグラスを慕っているブリジャーとフィッツジェラルドを残し、最後まで看取るように指示して立ち去る。しかし、グラスが重荷で仕方がなくなったフィッツジェラルドはブリジャーに「アリカラ族がもうそこまで迫っている。早く行かないとわれわれの命が危ない」とそそのかし、抵抗する息子をグラスの目の前で殺し、穴の中に埋めてしまう。瀕死の重傷を負っているグラスは身動きすることすらできない。こともあろうにフィッツジェラルドらは土を盛り、彼の武器と所持品を盗んで逃げていく。

 しかし、息子を殺された激しい怒りと復讐心がグラスに最後の力を奮い立たせる。「レヴェナント」とは、蘇った死者のことをさす言葉である。息子を殺したフィッツジェラルドに復讐することを糧に、彼を追って行動を起こす。極寒のなかで火を起こし、食べ物や水を探し、最初は這ってしか移動できなかった彼が、時とともに杖で歩けるようになり、ついには自分の力で歩くことができるようになる。

 人の進化の歴史は怪我、飢餓、感染症との戦いであった。地球の温暖化でアルプスの万年雪のなかから現れたミイラ化した5800年前の青年は、ぎすぎすに痩せていて、怪我を負ったその身体には感染症と思われる膿痬がいくつもあり、原住民同士の抗争で負ったと思われる矢じりの跡まであった。グラスの復讐の道のりには、開拓民を目の敵にしている先住民が待っている。まさにグラスの生に対する営みは、怪我、飢餓、感染症の危険があった数千年前のヒトの営みと同じである。

 彼は途中、アリカラ族に追われることになるが、馬で逃走中、馬もろとも谷底に落ちてしまう。ここでも辛うじて生き残った彼は、驚くべき行動に出る。何と死んでしまった馬の内臓を全部取り出し、空洞となった馬の身体の中に傷だらけで膿んだ傷もある身を沈め、深い眠りに落ちるのである。動物の血清には免疫グロブリンが大量に流れている。このグラスの行動はもしかしたら先住民から学んだ、怪我、感染症を癒す治療法の一つであったのかもしれない。

 果たしてグラスは、何とか町にたどり着き、フィッツジェラルドを探し出し復讐を果たす。彼の執念の賜物というほかはない。この物語は所謂時代劇でみてきた「仇討ち」ということもできる。映画に描かれてきた仇討ちを果たしたものたちがその思いを果たした後、どのような末路をたどったかはそれぞれである。グラスという男がその後どのような人生を送ったかは映画では描かれていないが、イニャリトゥ監督は「愛を感じながら、余生を送ったはずだ」と述べている。この映画の根底に流れているのは復讐とは対照的なヒューマニズムにほかならないが、それはきっとこの監督のもつ優しさが滲み出ているためであろう。

 イニャリトゥ監督が作った「バードマン:あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)」は、昨年、監督賞とともにいくつかの部門でアカデミー賞をとっているが、今回は監督賞に加えて何度も主演男優賞にノミネートされてきたレオナルド・ディカプリオに悲願のオスカーをプレゼントした形になっている。さらに特筆されるのは、撮影監督のエマニュエル・ルベツキが今回で三年連続撮影賞を取ったことである。混沌とした時代の極寒の北アメリカの様子を自然光で取り、人間の暗の部分を映像として上手くわれわれに送り届けたその技術は高く評価されている。音楽はがんで闘病している坂本龍一が担当し、荘厳な音楽を映像のなかに織り交ぜながら映画の臨場感を盛り上げている。

 ディカプリオは受賞スピーチのなかで、関係者にお礼をいった後、かなりの時間を費やし、環境破壊、地球温暖化について訴えた。きっと長期の撮影の中で、温暖化の現実を目の当たりにしながら危機感を抱いたのであろう。私も1996年から二年間、北極圏に近いスウェーデン北部のウメオという町に留学していたが、確かに土地の人々は口々に温暖化が起こっていることを訴えていた。一方、監督賞を受けたイニャリトゥ監督は、受賞スピーチで皮膚の色で人間が人間を区別、差別することの愚かしさを述べている。この映画のテーマの一つは紛れもなく人種差別の問題である。某国の大統領候補の一人は今のところ、「メキシコ国境に壁を作る」「日本や中国はけしからん」などと、ヒスパニックや黄色人種に対する排他主義的主張を声高に唱え一定の支持を得ているが、とても品格ある大統領になるとは思えない。

Copyright© Department of Neurology, Graduate School of Medical Sciences, Kumamoto University.