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「スパイダーマン」-STAP細胞

  • 2014.09.1

初めて医学の神秘を垣間見た三十数年前の医学部の授業から今日に至るまで、わずか数ミクロンのたった一個の細胞に、無限の宇宙の広がりと神秘が隠されていることに驚かされ続けてきた。iPS細胞の発見はそうした細胞のポテンシャルを提示した、まさに息をのむようなエポックメーキングな研究成果であった。私もその恩恵にあやかって、研究している遺伝性神経難病の治療を睨んで、この細胞を用いた研究に深く関与している。たった山中4因子と言われる四つの遺伝子を細胞に組み込むだけでES細胞のように何にでも分化し、不死化する細胞ができるという事実を目の当たりにして世界の研究者は震えた。最初は「信じられない」、という研究者も多かったが、世界の学者が同じ手法でiPS細胞が樹立できることを次々に証明していき、これを利用し病態解析を通り越して難病の治療ができるのではというところまで夢が広がっている。そしてSTAP細胞の出現?―生後間もない未成熟なマウスの細胞を弱酸性で培養するとiPS細胞のような遺伝子操作をすることなしに、より簡単に万能細胞ができるという報告は、それほど研究歴もない若い可愛い?女性が発表したことも手伝ってか、日本中が彼女の私生活と共にその細胞の可能性に注目した。

 

 弱酸性の環境は体の中でしばしば起こっている。例えば感染症にかかるとその局所ではpH5前後まで下がるので、もしかしたらSTAP細胞の様な現象が体の中で本当に起っているのではないかと多くの研究者は期待し、細胞がこんな簡単に初期化できるのなら、不老不死の細胞ができるのも時間の問題だとする週刊誌の特集さえ現れた。

 

 世の中にはそれが意外な報告であればあるほど穴のあくほどその論文をチェックし、あらを探す研究者が現れるものだ。もっとも穴が開くほど見つめなくとも、彼女の論文には他の論文の盗用、他の実験のデータや図の切り貼りなど、必ずわかるような初歩的なねつ造がいくつもあった。

 

この論文の妥当性については議論をさしはさむ余地など何もない。自然界の現象を、「アナと雪の女王」ではないが、「ありのまま」に報告するといった公理の様な大前提を無視すると、それは科学とは言わず、まさにフィクションの世界となってしまう。発表から半年近く経ち、未だに他の施設から追試報告がないところを見ると、これは彼女のねつ造であると結論付けざるを得ない。彼女が投稿時に「ネイチャー」の査読者から指摘を受けた「数百年にのぼる細胞生物学の歴史を愚弄する」ものであった可能性が高い。実験ノートに8か月も記載がない、STAP細胞を作製ためのマウスの購入実績がないという事実を考え合わせると、この細胞はこの世に存在しない細胞ではないかと多くの学者が考えるのは蓋然性という観点から考えると当然と言わざるを得ない。

 

インターネットでは、この「うら若き乙女」を「可愛そう」、だの「あそこまで苛める必要があるのか」などと擁護する向きの発言の方が圧倒的に多いらしいが、たぶん自然科学の研究に携わっていない一般の方々には彼女の犯したねつ造の意味が十分わかっていないと思われる。しかしその罪は計り知れないものがある。どれだけ多くの研究者が幻のSTAP細胞を求め無駄な追加実験をしたことか。そして日本が世界に誇る医学生物学研究の信頼に傷がついたし、先端研究の殿堂ともいえる理化学研究所が受けた打撃は計り知れないものがある。

 

日本は十数名にのぼるノーベル賞受賞者を輩出してきた。韓国は未だに受賞者がいないことを考えると、日本の科学研究は諸先輩の科学者の偽らない研究成果がある程度評価を受けてきたと言える。しかし、昨今、一昔前より圧倒的に研究者が増えた中で、アメリカ型の成果主義がもてはやされ、少しでも評価の高いジャーナル(特に, Cell NatureScience (これをCNSと略す))に通そうとすると、少しでも見栄えの良いデータを載せようとする思いが働く。今回は、切り貼りというごく初歩的なねつ造技術がことの騒動のきっかけだが、これは氷山の一角で、もっと精巧に偽りのデータを学術誌に投稿している研究者は少なくないのではないかと囁かれている。恐ろしいことだ。今回の騒動は、「すぐ見破られた」という一点において救われる部分があるが、これが精巧になってくると、多くの人が信じ、何年も誤った仮説、現象をもとに研究が行われ、誤った治療薬の開発が行われてしまう危険性すらある。

 

映画「スパイダーマン」(スタン・リー監督)第I話は、高校生が見学に来ていたコロンビア大学の研究室で「スーパースパイダー遺伝子」をもったウイルスに感染し、蜘蛛のもつ様々な超能力を獲得する物語である。iPS細胞の山中教授が「スパイダーマン」を見ていたかどうかは知らないが、今考えてみると、「特定の遺伝子を入れると細胞の形質が大きく変わり優れた能力を獲得する」といった話は、iPS細胞の成り立ちに似ている。ただ、実際に特殊な機能を持ったウイルスに感染するとこうしたことが起こるかというと答えは否である。例えばエイズウイルスや成人T細胞白血病を起こすHTLVIウイルスなどのレトロウイルスはリンパ球に感染するとヒトの細胞のDNAに組み込まれ、本来の機能を破壊するが、「スーパーヒューマン」に進化させるウイルスは自然界には存在しない。

 

 ピーター・パーカーは両親を亡くし、叔父に育てられ、少し内向的な性格のようだ。高校生になったが、彼女に思いを告げられず、同級生からもいじめを受けていて、決して楽しい学園生活を送っているとは言えない。ただ科学が大好きで社会見学で訪れたコロンビア大学の研究室では興味津々。しかしそこで前述のように遺伝子改変により作成された超能力蜘蛛、「スーパースパイダー」に噛まれてしまう。ピータは激しいアレルギー症状に襲われるが、翌朝起きてみると、蜘蛛のように驚異的な視力と体力が備わっていることに驚く。また手首からはクモの糸が飛び出し、指先だけで壁をよじ登れるようになっているではないか。

 

心が少し鬱屈したピータは、最初は自分の私利私欲のためにこの超能力を使おうとするが、親が死んだあと育ての親となってくれた大好きなベン伯父さんが強盗に殺された事件を契機に、命の大切さに目覚め、彼の心の中に勧善懲悪の心が芽生えていく。高校を卒業後彼は世の中の悪と闘い、人の命を救う活動を開始することになる。スパイダーマンの誕生である。

 

 「スパイダーマン」は「スーパーマン」と同じようにコミックから誕生し、ヒーローとして広くアメリカ人の子供から大人までの心を掴み、アニメ、テレビ、映画まで作られ、広く世界にファンを広げていった。一見、スーパーマンの二番煎じの様な映画ストーリーにみえるが、スーパーマンとの決定的な違いはその映像の楽しさである。スーパーマンは超怪力、超音速スピードで飛び回り悪者を懲らしめ、事件を解決するいわば旧来の「正統派」のヒーローであるのに対し、スパイダーマンは、蜘蛛の持つ特殊な能力を駆使して、高層ビルを飛び回る、コンピュータ・グラフクス(CG)が生み出した現代型ヒーローである。だからその映画化はCG技術が成熟する21世紀の到来を待たなければならなかった。

 

 

 

 インターネットをひも解いてみると、今やおびただしい数の論文のねつ造疑惑がレポートされている。某製薬会社の薬剤の効能に関するねつ造から、基礎医学分野まで多岐にわたる。その一部は誹謗中傷にあたるものだと思われるが、多くは信じるに足るだけのねつ造の「事実」が図や写真入りで暴かれている。中にはかなりハイレベルの新たなコンセプトを提供する研究で、その仮説に基づいて研究が行われてしまうと科学歴史が変わってしまうような重大なものまで含まれている。現代社会に過激化する成功主義、競争社会の弊害がそこに集約されているかに見える。スパイダーマンのピータがスーパースパイダー細胞に感染して良心に目覚めたように、iPS細胞技術が更に進歩して、人の心を治す時代が来ればいい。

Copyright© Department of Neurology, Graduate School of Medical Sciences, Kumamoto University.