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父の背中

  • 2015.02.1

2014年は多忙な一年であった。正月からかねてより寝たきりの父の病態が急変し、小康を経ては再燃を繰り返し、遂に3月くらいからは昏睡に近い状態となり、いつ別れの日が来てもおかしくない状態となった。平日でもしょっちゅう病院に呼ばれるようになったし、日々の診療、研究、教育の中でいつも父のことが気になりながら、時としてイライラするような時間が流れた。学会や研究会、省庁関連の会議、学会理事会などでの上京はひっきりなしだが、5月のはじめはアメリカへ、6月の終わりはイスタンブールへと海外出張が続いた私は、出張のたびに今度こそ親の死に目に会えないのではないか、これが懇情の別れになるのではないかと思いながら、父の病床から海外へと旅立った。そんなとき、「親の死に目に会えるような役者になるな!」という中村勘九郎が子供たちに言ったという中村家の家訓が背中を推してくれた。世の中の多くの子供たちが、年老いた親を持ち、こうして日常生活を送っていることを身にしみて実感した。寝たきりとなった親をどう看取っていくのかという問題一つとってもこれからの日本は大変だ。新年を迎えるにあたり、父は控えめな性格で、「そんな時間があったら医者としての力を付けろ」と苦笑いしているかもしれないが、父の生きた証を私の覚えている範囲で書き記しておきたいと思う気持ちが強くなり、以下のごとく追悼文としてまとめた。

 

父は2014年7月、89歳で逝った。一寸した風邪から肺炎をおこし、一旦呼吸停止したが蘇生し、その後寝たきりとなり、二年半の闘病後、眠るように旅立っていった。私が医師になって以来、「お前に手を握られて死にてーな」とことある毎に言っていた。郷里別府の病院に入院し、危篤状態を脱した時、即座に熊本の病院に転院させていたため、最期は父の願いが叶う形となった。人はこれを親孝行というが、二年半もの間、気管切開の状態で言葉を奪われた上、映画の「キングコング」のように手足の自由も効かず、私のことを藪医者と言い続けていた父は、きっとあの世で「もっと楽な最期を期待していたが、お前やっぱり藪医者やなー」と苦笑しているに違いない。

 

父は1924年当時日韓併合で大量の日本人が移り住んでいた平城に生まれた。決して裕福な家の生まれではなかったが、医療の道に進みたいと考え、一念発起して平城薬専に入学した。韓国人の受験者も多く、隣の韓国人受験者から、「ワタシ、コクゴガデキマセン、オネガイデス、カンニングサセテクダサイ」と言われたというから日本人には割合楽な受験であったのかもしれない。しかし入学と期を一にするかのように終戦を迎えたため、内地に引き揚げ、長崎薬専(現長崎大学薬学部)に編入され、苦学の末何とか卒業を果たした。その後国立病院勤務の薬剤師として40年近くも働き続けた。本当か嘘かは知らないが「当時は医学部も薬学部も入学は同じ程度の難しさで、俺は金のかからない薬学を選んだ。それが間違いだった。医師がこんなに威張って暮らす時代を見ると後悔が募る」というのが口癖であった。だから私が熊本大学医学部に入学した時には自分のことのように喜んで抱きしめられた。父は明らかに泣いていた。母に「俺がどんなに嬉しいかわかるか。今まで医者から薬剤部に無理難題を言われ続け・・・」と言ったらしい。

 

今のように病棟業務もない時代であり、比較的単調な薬剤業務の中で、何より官人として生きたことが誇りで、晩年は叙勲のことばかり気にしていた。死後すぐに従伍位の官位を頂いたが、生前になんとか叙勲させてやりたかった。このような価値観の父は私が熊本大学の教授になった折、めったに息子の自慢話などをしなかったが、「息子が国立大学の教授になった」と言って回ったらしい。

 

父は別府の病院の薬剤科長であり、ほどほどに人望があったのか大分県の病院薬剤師会会長まで務めた。あの当時、製薬会社のMRの方と親しく付き合うのは別段問題にならなかった時代で、ご接待で年に一回福岡平和台球場に連れていってもらうのが夏休みの最大の楽しみであった。昭和38年の夏休み、西鉄の中西がプレーイングマネージャーをしていた年であるが、稲生が投げ、中西がホームランを打ち、豊田がファインプレーをした試合は忘れられない。カクテル光線の中、夜空に虹をかけるような中西のホームランは今でも鮮明に覚えている。

 

薬剤師なのだからもっと家でも勉強したらよかったのではないかと思ったこともあるが、どこ吹く風、「飲む、打つ、買う」の素養は十分あり、飲むのは好きな上、パチンコ、麻雀、競輪などの賭けごとも程よくやっていた。酒を飲むと「畳の上では死ねない」と言っていたところを見るときっと浮気の一つもしたのではないかと勘繰っている。しかしいずれもほどほどにたしなみ、家庭が不和になるようなことは一度もなかった。私たち三人の子供の前では、決して大きな夫婦喧嘩などしたことはなく、概ねこの夫婦は仲良く暮らしていた。私自身は中学の時、一度だけ父に殴られ鼓膜を破ったことがあるが、後にも先にも父を怒らせたのはそれだけである。気は長いのか短いのか定かではないが、本質的に人と争うことを嫌った。

 

老いてくるにつれ、日常のことはすべて母に任せて何もできないでいる父が、万が一、一人で残ると困ったことになると考えていたが、いざ父が死んでみると、葬式の算段、役所の書類の処理、税金の申告などなど、何にもできない母がぽつんと一人残され、妻と二人で愕然とした。家の中では何もしないように見えた父ではあったが、それは表向きで、今思えば父はお嬢さん育ちの母のわがままをいつも一歩引いて許容しながら支えていたことがよくわかる。それは母に対する愛以外の何物でもないと思う。

 

父との思い出で一番に思い出すのは、私が小学校6年生の春、扁桃腺の手術をしたときのことである。病院から我が家に帰る2−3kmほどの道を父の大きな背中に背負われて帰った。夕暮れ時の初春の冷たい空気の中で、父の背中は思いのほか大きく暖かく、つい今しがた手術で受けた「虐待」を潜り抜け、一番頼りになる「味方」の大きな背中にたどり着いた安堵感から、私は眠りに落ちていた。大学生になった私は父と二人で飲みに行ったことがある。父はすでに社会人になっていた兄とそうした思い出があったためか余り嬉しそうな顔はしなかったが(親の子供に対する愛に決して優劣はないが、ものには順番というものがある)、私にはこみ上げるような嬉しさがあった。私はこんな日が来ることを漠然と楽しみにしていた。

 

入院中は気管切開の状態であったため、ほとんど会話ができなかったが、切開部をふさごうと試みた時期も短期間だがあり、その間いくつかの会話ができた。「お母さんにやさしくしてくれ」、「金魚の糞を連れるようにして回診しているのか。一度でいいから見てみたい」(父には「白い巨塔」のイメージがあったようだ)などの言葉が心に残っている。

 

父とは価値観も生き方も違うため、これまで親子の絆を意識して生きてきたことはあまりなかった。しかし最近鏡をのぞくと、自分自身の姿が驚くほど父に似ていることに何とも知れない感慨がわく。それはそうだ、確かに私の遺伝子の半分は父から受け継いだものなのだから。この秋から父が残したブレザーを時々着ている。父が私と同じ年齢の時、何を考え、何に苦しんでいたのか、何に不安を感じているのかなどが何となくわかるような気がする。「性格遺伝子」も「好み遺伝子」も同定されていないがDNAの間隙には確かにそうしたものが刷り込まれていて、そうした「遺伝子」が親から確かに受け継がれているように思えてならない。

 

今日まで大過なく生きてきて、少なからず幸せを感じながら、男としての充実感も感じることができたのは父から受け継いだ「遺伝子」と彼の後姿のお蔭のように心から思える。感謝そして合掌。

Copyright© Department of Neurology, Graduate School of Medical Sciences, Kumamoto University.