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「映画と恋と遺伝子と」-200回目の連載を終えて募る想いを-
- 2017.11.14
この度、月刊誌「Medical QOL(メディカル・クオール)」に連載している「開業医のための「誤診しやすい」遺伝性疾患の話」がついに200回を超えた。メディカルQOLのスタッフから連載のお話を頂いた当初は、「1年くらいでネタも尽きるだろう」、と高をくくっていたが、意外にも一回の休載もなく、200回も続ける運びとなった。全く想定外の「快挙」である。2000年6月号から2017年12月号まで、16年6か月間、このコラムのために書き続けたことになる。「無事之名馬」という発想で考えると、内容はともかく、これは大したことだということができる。その間、私の身辺もいろいろと変化が起こった。開始当初は熊本大学大学院生命科学研究部病態情報解析学分野(検査医学)の講師だったが、やがて教授へと昇任し、今から6年前に神経内科学分野の教授に就任した。また、今年の4月からは、医学部長、研究部長を拝命し一段と忙しくなった。その都度連載をやめようと悩んでいるうちについに200回を超え、201回を迎えた。感無量である。
「会議とスピーチとスカートの丈は短いほどいい」というのは普遍的な事実だが、年寄ほどスピーチが長くなるのと同じように、長く医師、研究者を務め、生きてきた時間も長くなると、「伝えたい、書きたい」と思うことがこんなにも溜まっていたのかと改めて驚いている。「私のエッセイを楽しみにしている」と、全く知らない医療関係者や開業医の先生が声をかけて下さったり、お電話を頂戴したりして、このエッセイの愛読者層が思ったより多いことに驚いてきた。
連載のお話をお受けしたときは、どのような形で遺伝性疾患を紹介するか迷ったが、私にとって映画鑑賞は何より大切な趣味であり、その中には病気、遺伝、遺伝子の要素がいっぱい詰まっているため、映画と関連して遺伝性疾患を紹介するとより理解が深まるのではないかと考えた。それが高じて、ヒトの体の仕組み、進化の歴史、人生論まで発展した。幸い、映画自体にも興味を持って下さり、「あの映画、観ましたよ」とご連絡を下さる読者の方がいたのも励みになった。
中にはどう見ても駄作としか思えないものも少なくなく「今月でおしまいにしようか」と思い悩んだこともあった。しかし、そうしたときに限って、編集者の中込典子さんがお褒めの寸評をお送りくださって、またその気になって次号を書きこれだけの時が流れた。
私が映画館に初めて足を運んだのは、4歳の時であった。両親に連れられて家の近くの場末の映画館で「鞍馬天狗」を観た。白黒の映画で、ばったばったと小気味よく悪人を切り捨てていく鞍馬天狗の恰好よさに心奪われ、母に風呂敷とおもちゃの刀を買ってもらい庭でその気になって殺陣の練習をしたのは遠い想い出で、思い出しては苦笑いしている。私が住んでいた別府の繁華街から10キロほど離れた亀川という地区は、別府市には含まれてはいるものの明らかに「田舎」で、別府の中心部に行くとき、地域の住民は皆「別府に行く」と言っていた。そこは別府文化圏ではないのだ。
丁度、イタリア映画「ニューシネマパラダイス」のように、当時の映画館は住民の憩いの場であり、結構客が入っていた。主に邦画を上映していたが、市川雷蔵、小林旭、石原裕次郎など男の生き様を漠然と学んだ。私はテレビ隆盛期に小中学生時代を送ったため、そのあおりをもろに受けた映画産業の衰退期を目の当たりにしてきた。あっという間に亀川の映画館はパチンコ屋に姿を変えたし、別府の繁華街の映画館も減っていった。そんな中で、中学生くらいの頃まで、よくアメリカ軍の軍艦が寄港しており、それを当て込んでか小さな洋画館があった。兄は文学青年で、数々の翻訳本に触れる機会もあったし、定期的に購読していた映画雑誌「スクリーン」は衝撃であった。そうした洋画館で、その雑誌で垣間見たハリウッドやヨーロッパの名作映画、特にその中に出演している女優の立ち振る舞を目の当たりにして心を奪われ続けた。
熊本大学の学生になった1970年代、熊本には名画館が3件あり、そこでも名画を堪能した。特に「テアトル電気」という映画館は名画3本建て500円で見ることができた。金欠病に苛まれていた学生の私には、その値段が有難く、足しげく通った。しかしこれも「ニューシネマパラダイス」のようにいつの頃からか廃館となり、今は駐車場になっている。
「遺伝する」ということは親の遺伝子によって規定される形質を受け継ぐ、という極当たり前の摂理だ。それはそもそも子供にとって誇りであるべきである。しかし、親の持っている病気の遺伝子を引き継いでしまった場合、子供の想いは複雑であり、親は罪悪感に苛まれる。中には治療可能なレベルにまで研究が進化してきたものもあるが、未だに当事者には冷たい視線が送られている。結婚、就職など人生のターニングポイントでこのことが影を落とす局面がある。ヒトは親も、持って生まれた体質も、そしてそれを規定する遺伝子も選ぶことができない。体調を崩し思い悩み病院へ行き、検査の結果、遺伝性疾患に侵されていることを告げられた時、多くの人がまず第一に思うことは、わが身のことより、果たしてその病気が最愛のわが子、孫に遺伝するかということである。曾野綾子が「誰のために愛するか」に確かに記したように、燃える火の中に取り残されたわが子のために、親は無心で助けようともがくし、肝臓の難病を患うわが子には、ごく自然に自分の肝臓を差し出そうとする。親は子供の生命の危険にかかわることは全力で守ろうとする。それはヒトの進化の過程で、遺伝子の間隙にすり込まれ、継承されてきた「遺伝情報」のひとつで、ヒトはそれを「愛」という言葉で表現する。ヒトの親になるということは、そういうことなのだと思い知ったのは、上記のような遺伝性疾患に長らく深くかかわってきたからに他ならない。本誌で紹介した遺伝性疾患を扱った映画、こうした募る想いを描いた映画はまだまだ沢山あるが、そうした映画が観るものの心を捉えて離さないのは、人が愛という「遺伝情報」を共有しており、人の命は有限だからに他ならない。
何年か前のNHKの大河ドラマ「天地人」は、上杉景勝を終生支え続け、上杉家の滅亡の危機を救った直江兼続の一生を描いたドラマであった。兼続は6歳のとき、親元を離れ、お城勤めになる運命を背負うが、その時母と離れ離れになることをむずかった。その時母は、「義」というもの、人生というものをわかりやすい言葉で優しく兼続に語り掛ける。「もみじは秋になると、樹々が冬、そして来るべき春に備えて力を蓄えるために散るのです。だから紅葉はかくも美しいのですよ。あなたも殿様のために立派に奉公をして紅葉になるのです」
実際には紅葉のような美しい老人にはめったに会えるものではないが、私もいい映画をいっぱい観て、さらに心を成長させ、美しい紅葉に近づく努力をして、丁度細胞がアポトーシスというメカニズムで新しい細胞と入れ替わるように散っていきたいと願っている。
きっと100年も200年も続く瑞々しい愛などありえないのだろうし、老化とともに瑞々しい感性も衰えていき、愛だの恋だのとお互いを強く意識しなくなるのは、人にとって好都合な生態防御反応であり自然の摂理であることは言うまでもない。超高齢者が、メラメラと恋心が燃え上がり、逢瀬を重ねていたのでは、とどのつまり心筋梗塞か脳血管障害を起こし、大変なことになるのは必定である。ある有名な病院の院長先生が「家内にとって私は腹違いの長男のような存在です」と言っていたが、言い得て妙なる表現である。「いつも気になる存在だが放っておいても大丈夫」。家内にとって自分はそんな存在だと言いたかったのかもしれない。恋は有限だからはかなくも美しい。だからこそ、有限な中での生への営み、葛藤を描く映画は尽きないし、観る者の心を捉えて離さない。今後も可能な限りそうした映画を紹介しながら、数々の疾患と募る想いを書き記していきたいと希っている。