最新の投稿
「92歳のパリジェンヌ」-尊厳死-
- 2017.12.20
エジソンは「天才とは1%のひらめきと99%の努力である」といった。努力は我慢しないとできない。「人生とは1%の喜びと99%の辛抱である」、と思う瞬間がある、いや多いと書くべきかもしれない。ヒトは泣きながらこの世に生まれてきて、泣きながら死んでいく。生まれてくる環境も親も兄弟も選べやしないし、人生とはどうしようもないこと、我慢と諦めの繰り返しだ。ただ二つのことは選ぶことができる。生涯の伴侶と、死ぬ時期、場所である。我が国では自殺幇助は罪に問われるが、自殺の自由が保証されている。どのように死ぬのか、いつ死ぬのかは原則として自己決定権が残されている。
パリにこの権利を主張し、パリジェンヌらしく品格を保ちエレガントに死んでいった女性がいる。ミレイヌ・J、フランスの元首相ジョスパンの母親である。「92歳のパリジェンヌ」(パスカル・プザドゥー監督)は、家族の反対を押し切って尊厳死を求めて実行した実話をもとにして描かれた心に迫る映画である。
パリに住むマドレーヌ(マルト・ヴィラロンガ)は92歳の誕生日を迎える。二人の子供、そして孫にも恵まれ、今はヘルパーの助けは借りてはいるものの何とか一人で生活している。かつては助産婦として活躍し、一見矍鑠とした普通の可愛いおばあちゃんにみえる。しかし、彼女は何年も前から一人でできないことが増えていっていることが気がかりだ。そんな中で迎えた誕生日である。彼女は家族全員が集まった誕生パーティーで、びっくりする話を始める。「私の人生は本当に幸せだったが、家族に迷惑をかける前に死のうと思う。2か月後に自らの手で死にたい」と宣言したものだから大変だ。マドレーヌの性格を知り尽くしている子供たちは事の重大さを直ちに認識し、激しく反対する。「そんな話馬鹿げている」とまったく相手にしない息子のピエール。娘のディアーヌも、突然の母の宣言に当惑するばかりであった。残り2か月、家族とマドレーヌとの濃厚な時間が流れていくことになる。
そもそもマドレーヌは30年も前から時が来たら自分は尊厳をもって死ぬつもりであることを家族には話していたが、子供たちはそんな話など現実味がなく、どうせ母親のたわごと、いずれ気が変わると高をくくっていた。しかし彼女は、今が決断を下す潮時だと心に決めている。そんな中である夜、彼女は不覚にもおもらしをしてしまうが、さすがに恥ずかしさも手伝ってお手伝いのヴィクトリアに隠れてシーツを自分で洗おうする。「それは私の仕事よ。あなたの仕事は死ぬことだけ」とマドレーヌを笑わせるヴィクトリアであったが、久しい以前からマドレーヌの世話をしていて、最近の衰えを目の当たりにしている彼女が発するこの言葉は、必ずしもジョークとは言えない側面がある。
さらにマドレーヌの意を強くする事件が起こる。アパートでボヤ騒ぎを起こしてしまったのだ。軽いやけどを負って病院に担ぎ込まれたが、入院中にも失禁してしまい、看護師に紙おむつを履かせられるようになる。そんな中、病院の庭で不法入国の女性が産気づいたのを目の当たりにし、見事な手さばきで赤ちゃんを取り上げる。「自分は確かに老いたが、まだこんなところでは死ねない」。そう思ったマドレーヌは娘のディアーヌに頼んで病院を抜け出す。娘は少しずつ母の状況、気持ちを理解するようになり、寄り添おうと考えるようになっていくが、そう簡単に割り切れるものではない。錯綜した気持ちが彼女を苦しめるようになっていく。遂に夢でうなされるようになり、夫婦間もぎくしゃくしはじめる。
一方、息子ピエールは尊厳死など絶対に許さないという姿勢を崩さない。「みんなの迷惑になりたくないのだったら施設に入ればいいじゃないか」、と主張する。そしてマドレーヌが用意していた自殺のための薬をついに強引に取り上げてしまう。しかし彼女の心は揺るがず、昔付き合っていた男性に会いに行って心の整理をしたりもする。
そしてついに運命の日がやって来る。 ディアーヌの家にピエールを除いて家族が集まる。そしてマドレーヌからかかった最期の電話を受けたのはディアーヌであった。「今から薬を飲むわ(この映画では薬は一体何であったのか明らかにされていない)。ピエールのことをお願いね」。
この映画はディアーヌの、「耐えられないと思っていたけど、死の恐怖は消えた代わりに深い悲しみが訪れた」という言葉で終わる。人はいつまでも凛として生きていたい。最期まで「美しくありたい」と願う。マドレーヌはその思いを貫き通し、最期に家族はそれを受け入れた。
最近、「日本尊厳死協会くまもと」の講演会に招かれ、この分野には素人に近い私は戸惑ったが、何とか日々の診療の中から、尊厳死と関連するエピソードを紹介しお茶を濁した。その時、市の広報活動の一環として配られていた一枚のパンフレットが目に留まったが、それにはこう記されている。「救急車を呼ぶということは、命を救ってくれというメッセージです」。ごく当たり前のメッセージを記した一枚の紙に、今の医療がおかれた問題点と、死を意識し始め、豊かに尊厳をもって死にたいと願う高齢者の思いとのギャップをみる思いがした。家族の一員である高齢者、それも何がしかの疾患で治療を受けている状態で、突然呼吸が苦しくなる、心臓がおかしくなる、意識が薄れる、手足が動かなくなる、などなど。特に闘病中の高齢者はいつ何時、このような事態に陥ってもおかしくない。とっさに救急車を呼ぶのは家族として当たり前の感覚だが、そのパンフレットは「ちょっと待ってくださいよ。もう一度よく考えてみてください」と訴えているのだ。
現在の我が国の医療は、少しずつ尊厳死、それに関連する安楽死を受け入れてもいいのではないかとする方向に走り出してはいるものの、生命の危機に瀕した状況では、本人はともかく、家族が救急車を呼ばないという選択肢を選ぶのは相当決断力がいる。特に医師の場合は、いい加減な対応をすると、必要な医療をしなかったとして、下手をすると殺人罪に問われかねない。余命が限られている状態でも、「何もしないで静観する」ことは相当難しい決断になる。
これが安楽死となると更にハードルが上がる。数年前、父が呼吸障害を患い長らく闘病したが、あまりに苦しがるので、安楽死を病院に相談したことがある。主治医は大変丁寧に対応し、その病院の倫理委員会までかけてくださったが、回答は、実に当たり前のものであった。「現在の我が国の医療では、病状にマイナスに働く医療は一切できません」。私は今でも父にはその後も苦しい思いをさせて悪かったと思っているが、自然経過に任せて死を迎えられたことをよかったと思っている。増える一方の超高齢者、増大する社会保障費、医療費。そんな中で、尊厳死を主張する患者の気持ちを大事にしながら、社会を整備していくことは重要な視点である。しかし、これは言うまでもなくかなり難しい作業になる。
一方で、近年盛んに開発が進む高価な抗がん剤や生物製剤の使用についても様々な議論がなされているが、正解にたどり着くことはできない。特にがんの場合は、高齢になる前に突然舞い込んできた不幸である場合も少なくなく、一縷の望みをもって「効かない可能性の高い高価な抗がん剤でも投与してほしい」と願う患者を、値段や適応を根拠に線を引いてしまうのも心情的にはなかなか難しい。
今回紹介したマドレーヌの場合は、久しい以前から尊厳死を希求しており、92歳になっても体は衰えても心は矍鑠としており、家族もそれにうまく伴走できたが、おそらくこのようなケースは稀であろう。フランスでは首相の母という話題性も手伝ってこの問題は世間の注目を集めたが、案の定、この家族は殺人に力を貸したのだとする批判もあったらしい。時代背景、家庭の状況、インテリジェンスのレベル、受けた教育の違いで、個々の意見が異なることは当然のことである。