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「ダーウィンの悪夢」-進化論と外来者-

  • 2008.05.1

38億年前、RNAからはじまったわれわれ地球上の生命体は、しばしば外来者の侵略や突発的な環境の変化に影響を受けながら進化を重ねた。ダーウィンの「現存する生物は適者生存による進化の結果の産物である」とする「進化論」では、生物の進化がいかに環境の変化に適応したものであったのかを見事に説明しているが、突然の侵略者に対する生態系の変化、それによる進化の変遷に関する言及は余りなされていないかにみえる。

 

アフリカ、ヴィクトリア湖は、母なるナイルの源流であり、かつてそこでは多様な生物が棲み、生物の宝庫といわれた。ヒトが生まれ、エイズが起こったのもこの場所である。少なくともつい最近までは、大きな変化のないヴィクトリア湖水の環境のなかで、魚類が独自の進化をはぐくんで行った結果、この湖にしか存在しないいくつもの珍しい魚類も誕生した。

 

しかし1960年代のことと考えられているが、ある心ないものによって放流された外来魚、ナイルパーチがこの湖に異常繁殖し、他の魚を駆逐していった。成長すると人の身長ほどもあるこの魚は、湖の富栄養化も引き起こし、ナイルパーチの餌として必要とされる魚以外の魚介類の死滅も引き起こしているという。映画「ダーウィンの悪夢」(ザウパー監督)では次々にこうした事実を暴いていく。

 

しかしアフリカのなかでも特に開発から取り残され、部族間の抗争から発展した戦争と極貧にあえぐこの地域一帯の人々にとって、この外来魚は「経済」という点では大きな福音であった。何故ならナイルパーチは、食用としてヨーロッパ人、日本人の食指をそそったからである。ヴィクトリア湖一帯にこの魚の切り身を輸出するための一大漁業産業が発展し、加工された何百トンもの切り身の魚は、毎日のように飛行機でヨーロッパへ、そして一部は日本に運ばれていく。この魚の味はなかなかのもので、日本では、一部では「スズキ」として売られているという。

 

ナイルパーチのように環境の変化に対応できないものは敗者として滅び、生き残ったものは勝利者として繁栄できる。ムワンザの湖畔の町にはこの外来魚の「産業」に適応し富裕層となった一部の勝利者と、圧倒的多数の非勝利者の格差社会が生まれ、街にはストリートチルドレンが増え、売春や犯罪がはびこるようになっている。魚の本体は輸出されるが、多くの地元の人々は捨てられた残骸を食べるしかない。富はヨーロッパ、日本へ吸い上げられ、公平に配分されることは決してない。現代人が世界規模で抱える格差社会の問題がここに集約されていると映画では訴えている。先進国が発展途上国を利用してさらに発展しようとする構図、それはダーウィンが進化論で記した適者生存説と同じではないかという疑問が、みているものには生まれてくる。

 

臓器移植の話に変わるが、この問題も先進国(この場合は日本)と発展途上国の関係として根深いものがある。移植では、世界的なドナー不足の中でさまざまな軋轢が起こっているのはいうまでもないが、日本では一向に脳死移植は進まず、相変わらず臓器移植の恩恵に浴すことができない一部の患者が、巨額の資金を用意し、海外に渡航し続けている。現在もなお中国、フィリピン、最近はコロンビアにまで行って、臓器と移植を金で買うに等しい実態がある。そうした発展途上国では、臓器売買ブローカーがはびこることになる。ナイルパーチが地域社会を変えたに等しいような状況がそこにもある。かつて肝移植では、スウェーデンやオーストラリアが積極的に邦人を救ってくれていたが、自国のドナー不足から背に腹はかえらず、日本人お断りとなっている。

 

日本では臓器移植のニーズは増え続けているので、当然多くは生体移植ということになる。これまで、ドナーの適応が、配偶者か二親等あるいは三親等以内の親族と限定されていたが(大学の倫理委員会の見解で異なる)、これではとても移植の需要を満たせない現実もあり親等はどんどん引き下げられる現状にある。たとえば某大学では、なんと六親等以内ならドナーになって良いという倫理基準を作っている。

 

六親等とは、いとこの子供同士がドナーとレシピエントになりうることになる。家族の核化が進む現代にあって、一度も会ったこともない又いとこが、「遠い親戚が、お前の肝臓を分けてもらえないと死んでしまう」といわれて二つ返事で「はい、そうですか」と手術台に上れるものが一体どれほどいるというのだろうか。ここにも強者の論理がまかり通る状況がある。

 

いうまでもなく、生体移植は日本が突出して多い。その際のドナー候補は、いつの間にか、親族に限ることがさしたる議論もなく受け入れられてきた。移植のドナーを決定するに当たって重要なことはドナーの自主性(決して強制ではないこと)と無償性である。では、ドナーを近親者に限るとこの問題は解決されるのか。答えは当然のことながらノーであろう。現実には親族関係の近遠、すなわち親等が低いほど提供の意思、希望が強くなるわけでは決してないことをわれわれ移植関係者は知っている。「弟だけにはやりたくない」「移植の適応がない、と弟に言ってくれ」こんな話は枚挙に暇がない。血縁という事実は変動しないが、人間関係は状況によって変動する。血縁だから、感情的、精神的共感関係があるに決まっているとする現在の生体移植に関する倫理規定はいささか早計である。

 

本当は過去における実質的な共同生活に裏づけられた感情的、精神的共感関係があるものがドナーになるシステムが構築できれば、移植はもう少し社会に受け入れられるような気がする。私は患者が肝移植を受ける時ドナーが見つからないと、私の肝臓でも使えないものかと悩むことがあるが、実質的な共同生活は寝食を共にする場合や、それに限らず、関係の深い職場の同僚などでも自発性が証明できればドナーとなることができるとするのが人間として当然の倫理のような気がしてならない。

 

さて、進化の話に戻るが、外来種が在来種を駆遂しようとした例が植物の世界にもある。戦後、わが国に進駐軍と共に広がったセイタカアワダチソウである。一時期日本の野原をこの新種が席巻するのではないかとまで心配され、マスコミにもずいぶん取り上げられた。セイタカアワダチソウが花粉をまき散らすので喘息の原因になると悪者扱いされたものだ。

 

 

ところが最近は話題にものぼらなくなった。なぜか。セイタカアワダチソウは地表から深さ50cmくらいのところに根を張って栄養をとって成長する。地表から50cmくらいのところにはモグラやネズミがいて、これらの動物が土のなかで生活している。そこはたくさんの肥料を蓄えている。ところが日本の植物のなかには、50cmという深いところの肥料を栄養にして成長していく植物がなかったため、まだ手つかずのまま肥料が残っていて、この植物は一時期大繁殖した。

 

偶然競争相手がいなかったセイタカアワダチソウは5m近くまで成長した。しかし地表から50cmの深さのところから肥料を運び出してきては、大きく成長し、枯れてしまうということを繰り返すうちにこの場所にあった肥料を使い尽くしてしまった。今はまた昔のようにセイタカアワダチソウが生い茂っていた場所にススキやオギが入り込んでいるようである。

 

確かに秋口、電車の車窓からセイタカアワダチソウに代わって、近年ススキを眼にすることが増えたことに気付く。それは水質の汚濁だとか、土壌の汚染だとか、大気の汚染だとかではなくて、生物が土との関係で組み替えてきた変化が現われたようである。ススキが優勢になっていくのが、まだ30年、40年と続くであろうといわれている。

 

このように植物の世界は、外来種との温和な共存、共生が行われているが、ナイルパーチのようなラジカルな肉食種は一網打尽に環境を変えてしまい、その環境で折角長い時間をかけて積み重ねてきた進化の活動を一瞬にして台無しにしてしまいかねない。ヒトも含め、動物種は一体進化のどの過程で弱肉強食の競争原理を獲得してしまったのであろうか。

Copyright© Department of Neurology, Graduate School of Medical Sciences, Kumamoto University.