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「こんな夜更けにバナナかよ」ー筋ジストロフィー症ー

  • 2019.02.18

幼い頃、運動能力が極端に悪いことをきっかけに筋ジストロフィー症と診断を受け、20歳まで生きられないかもしれないと言われながらも四十路を迎えた男がいた。彼の闘病史を纏めた本、「こんな夜更けにバナナかよ-筋ジス・鹿野靖明とボランティアたち」がその内容をもとに映画になった(前田哲監督)。この本が史上初めて大宅壮一ノンフィクション賞と講談社ノンフィクション賞を同時に受賞しているのは読者の心を引きつけるからであろう。

 

主人公、鹿野靖明(大泉洋)は、病気になっても決して卑屈にならず自分の感情を素直に表現し、さまざまな制約の中ででも夢を追い続けている。そのこだわりのない性格や、素直さが故にボランティアの人たちに愛されている。映画では主人公の生き様や、ボランティアとして彼と深く関わったフリーターの安堂美咲(高畑充希)、医学部生の田中久(三浦春馬)らの人間模様もしっかり描かれていて、映画を見終わると一抹のすがすがしさを感じる。

美咲は医学生の恋人、久がボランティア活動に時間を奪われて構ってくれないことに不満だった。彼と少しでも一緒にいたい彼女は、久の活動現場に乗り込んでいくが、そこには何人ものボランティアに囲まれて、我が儘ばかり言っている鹿野がいた。彼は筋ジストロフィー症のため、首と手しか動かせない状態であったが、ボランティアには気を遣わず、あけすけに地を出し、次から次に頼みごとを言いつけていた。彼には24時間誰かがついていないと命が保証できないため、夜の部のボランティアが必要だが、ある日これを任された美咲と久に、鹿野は何と突然「バナナが食べたーい」と言い出すではないか。美咲は怒髪天を突くが、次第に鹿野の、おしゃべりで女好きの性格の中にも人としての暖かさや人懐こさを感じるようになり、ありのままの姿に興味を抱くようになる。

鹿野の当面の「目標」は、英語検定2級を取得することだったが、その姿に触発された美咲は、改めて大学受験を目指そうと考えるようになっていく。実は彼女はフリーターなのに久には教育学部生と偽って付き合っていたのだった。美咲の久への思いに気づかないまま、鹿野の彼女への思いは深まっていく。その一方で病状は悪化し、医師から人工呼吸器をつけることを強く薦められるようになる。それは鹿野から言葉を奪うことを意味するが、彼はこれを受け付けない。しかしついに英検の受験日、彼は呼吸苦で倒れ、人工呼吸器を装着せざるを得なくなる。

人工呼吸器をつけながらも鹿野とボランティアによる言葉を発する方法の模索が始まる。ある日、彼は偶然挿管チューブのわずかな隙間から漏れ出る呼気で発声する方法を発見する。一方で人工呼吸器をつけると一日何回も痰の吸引が欠かせなくなるが、これは医療関係者と家族のみに許される医療行為である。しかしそれを知った彼は「俺のボランティアは家族だ」と言って押し切る。再び家に帰ることが許された彼は、ボランティアたちとともに旅行に出かけたりしながら残り少ない人生を謳歌し、遂に力尽きて逝く。42歳だった。彼に関わったボランティアは延べ500人を超えるが、彼を偲んで死後もボランティアの会がもたれるという。鹿野という男の人柄が偲ばれる。

 

筋ジストロフィー症にはいくつかのタイプがあるが、最も重篤なものはデュシェンヌ型で、幼小児期から筋力低下症状が出現し、通常、十歳代には呼吸筋障害が起こり人工呼吸器につながれるようになる、神経疾患の中でも難病中の難病である。根治療法は未だ確立されておらず、一昔前までは二十歳前に命を落とす患者も多かったが、患者のケアシステムが格段に進歩し、今や30~ 40歳まで生きる患者も少なくなくなった。この病気はX連鎖劣性遺伝形式をとるため、通常母親は遺伝子保因者となり発症しないが、男児に二分の一の確率で遺伝子を伝える。従って母親である自分が最愛の息子を病気にしてしまった、という罪の意識が強いためか、「筋ジストロフィー症母の会」という患者・家族の団体ができている。一方、このタイプに臨床症状は近いが、症状が比較的軽度で十代になっても歩行もできるタイプにベッカー型筋ジストロフィー症がある。デュシェンヌ型では骨格筋の膜構成蛋白質であるジストロフィンが遺伝的に完全欠損し筋が崩壊するが、このタイプはこのたんぱく質がある程度産生され、モザイク状に筋膜に発現するため、進行がデュシェンヌ型に比べて緩やかとなる。鹿野はデュシェンヌ型筋ジストロフィー症の診断を受けたようだが、進行のスピードなどを考えるとベッカー型であった可能性も否定できない。

ベッカー型患者の臨床症状の軽重はかなり個人差があり、中には高齢になるまでほとんど筋力低下がみられない患者もいる。小学生の頃からかけっこはいつもビリだったものから、部活で野球やサッカーの選手だったというものまでいる。血液検査で、筋の崩壊が起こると血中に漏れ出るクレアチニン・キナーゼ(CK)値が高いことに端を発し発見され、遺伝子検査や筋生検で確定診断がつくことも多い。進行すると四肢筋の障害に加え心肥大、心不全、さらには呼吸筋の障害が起こり、鹿野のように人工呼吸器をつけなければならなくなるケースもある。

病気をするとどうしてもマイナーな思考に陥る。さらに残りの人生の時間が計算できるようになると悲壮になっていく。これに手足が動かず、コミュニケーションの手段も限られてくるとどうしようもない閉塞感に苛まれるものだ。人間の真価が問われるのは、最も不遇な時にどうわが身を処するかであるとはいうものの毅然と生きていくのはなかなか難しい。一方でそうした患者に関わる側からすると、どうしても「可哀そうだ」という気持ちが先行し、一歩引いて関わりあってしまいがちになる。しかしそれは決して患者側が望むことではない場合が多い。実際の医療の現場では、患者は不具合を理解して欲しいという思いと、同情されたくないという思いが錯綜しており、医療従事者はその関わり合い方に苦慮することが少なくない。

 一人の身障者、患者に100人はおろか500人以上のボランティア関わりあうなどということは通常起こりえない。いかに鹿野という男に人間としての魅力があったか窺えるが、人間は誰でもどんな状況でも、生きるためには自分の思いを表現し、その思いが達成されるよう努力する「権利」がある。筋ジストロフィー症は不幸にして心筋や呼吸筋を含む骨格筋が障害される病気ではあるが、人として生きるための脳は障害されず、瑞々しい心は保たれる。普通の人間が享受できる喜びや楽しみを得ようとする「生きる意志」は保証されなければならないがそのためには、決して陰にこもらず、鹿野のように自分の恥ずかしい部分もさらけ出す覚悟も必要なのだということをこの映画は教えてくれる。

我が国では最近、身障者向けのトイレや、公共の建物でのスロープなどが随分と普及しつつあるが、依然身障者が利用できない建物は少なくない。北ヨーロッパを旅してみると、未だに日本が、身障者に冷たい社会であることを痛感する。

超高齢化する社会の中にあって、高齢者の介護、増加する認知症患者への対策など医療における問題は山積みされているが、こうした若い難病患者のケアも21世紀の大変な問題だ。少子化の波のなかで、場合によっては知恵と経験豊かな健康な老人をそうした現場に引っ張りだし何らかの形で活用しなければ社会が成り立たなくなるが、この映画に描かれている鹿野のようなケースをみると、やはり同じジェネレーションの人間ももっともっとボランティアという形で身障者を支えていかなければならないと思う。

 「協働」という言葉が叫ばれ始めて久しいが、老人が増え、若者が減る日本の社会にあっては、異なったジェネレーション、異なった仕事を持つ人々がそれぞれの特性を生かしながら、垣根を越えて協力し合い、オーバーラップしながら協働するシステムを構築していかなければ我が国の未来はない。

 

 

Copyright© Department of Neurology, Graduate School of Medical Sciences, Kumamoto University.