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「泣き虫しょったんの奇跡」-リベンジできる世界-

  • 2018.10.16

某私立医学部の入試では、文部科学省の官僚の「おねだり」によって力のないドラ息子が不正合格をしていたことが明るみに出たが、それに端を発して予想もしなかった不正が浮き彫りにされた。女子の入学を制限するため、男子の受験者に有利な採点システムを導入していたこと、そして二浪以上を制限するため、彼らに不利な採点が行われていたことである。文部科学省は即座に全国の医学部長に対して同様の不正が行われていないか調査を依頼したが、国立大学法人の医学部長としては考えもつかないことで驚きを禁じ得ない。マスコミは彼の大学が特に女子受験生に門戸を狭めていたことをいっせいに非難したが、個人的には多浪生や再入学を目指して頑張っている受験生を嫌う余り、露骨に彼らの入学を制限するシステムをとっていたことの理不尽さのほうを憂う。

 日本には、一度選択を誤った者にリベンジするチャンスを与えることをよしとする社会の仕組みが整っていない。一度就職活動に失敗すると正規職に就けない可能性が高い仕組みになっており、そのことが就職戦線をさらに過熱させている。「人生50年」の昔ならまだしも、白寿が叫ばれる現代社会にあって、リベンジができないとなれば、出だしで失敗した青年が、閉塞感のなかで自由度を著しく奪われたまま、長く苦しい人生を送り続けなければならなくなってしまう。

 私は1990年代にスウェーデンの医学部に留学し、学生の教育も担当していたが、30歳代の医学生はざらで、2,3年休学して興味のある医学研究に没頭する医学生もいた。「アイスランドでアルバイトしながら生活してみたいので2年休学します」といった「変わった」学生もいたりした。要するに社会に多様性があり、自由度があった。

 医師の仕事も、救急医療や外科でばりばり医療をする体力勝負の部門もあれば、ターミナルのがん患者に寄り添うように診療する「心を診る」医者や、すぐには病態が変化しない慢性疾患を診る医者、心の病に十分時間をかけて対峙する医者、さらには医療行政を担う医官だって必要である。若いに超したことはない部門と人生経験がものをいう部門まで多種多様である。

 最近は医療の国際化でアメリカ型の医学教育が推奨され、1年生から実習型の医学教育をしなければならなくなり、教えなければならないことも指数関数的に増え学生の自由度がなくなっている。夏休みはたっぷり2ヶ月あり、春休みもそれ相応の期間あったわれわれの時代と大きく違っている。当時のわれわれには本を読み映画を観て恋もし、旅行もして心を養う時間があった。しかし今は「先生、そんなことをしていると、留年するし、国家試験に通りません」という学生まで現れた。

 もちろん、多浪の医学部生ばかりになるのは問題であるが、現役で失敗を知らない医学生よりも、苦節数年、やっと医学部にやってきた学生のほうが、時として人の心の傷みがわかる医師になる場合もある。小中学校ではないのだから、スウェーデンのように、多様性を持った学生の構成があってもいいと思う。成熟した社会では、一度失敗したものがリベンジができる仕組みは極めて重要である。少なくとも現役ばかりの学生の医学部を作りたいのなら、募集要項にはっきりそう記載するべきである。

 映画『泣き虫しょったんの奇跡』(豊田利晃監督)は、棋士の瀬川晶司の自伝的ノンフィクション小説を映画化したものである。豊田監督は実際に、新進棋士奨励会に所属し、棋士を目指していた時期があるだけに場面場面の描写がリアルで心に迫る。

 小学生時代、地味でおとなしく何の取り柄もなかったしょったん(松田龍平)が、初めて同級生から注目されたのが将棋だった。担任の鹿島澤先生(松たか子)はとても褒め上手な先生で、「しょったん、将棋がうまいのね」といって驚いてみせる。おそらくしょったんが先生に褒められた初めての経験だったに違いない。父も最大の理解者の一人で、決して勉強しろとはいわず「人生では好きなことをやることが一番大事だ」と将棋の腕を磨くことを勧める。やはり将棋好きな同級生の悠野(野田洋次郎)と連れ立って町の将棋クラブでどんどん実力をつけ、中学生の大会では準優勝する腕前にまでなっていく。彼は中学卒業とともにプロ棋士の登竜門である奨励会に入会する。

 しかし、そこからしょったんの苦しみが始まることになる。やがて三段になり数十人いるプロ予備軍のなかで、年に二回ある昇段試験を勝ち抜き、トップ二名に入らなければ四段に昇進してプロにはなれない。しかもそれには年齢制限もあり26歳までに四段に昇進しなければならない。次第に好きな将棋が苦痛に変わっていく。彼が現実から目を背け棋士仲間たちと遊び回っているうちに、将棋を捨てたと思っていた悠野がアマ名人になったことを知る。しょったんはこの「鉄の掟」のなかでプレッシャーを感じるようになり、肝心なところで勝てなくなり、ついに26歳で退会を余儀なくされてしまう。

 彼は絶望と喪失感に襲われ、自閉的になっていく。しばらくは自暴自棄の生活を送っていたが、諦めがついたのか大学に通うようになり、やっと就職を果たす。そんな時、彼の夢を応援してくれていた父が交通事故で突然他界する。傷心のしょったんは訪ねてきた悠野の家で久しぶりに将棋を指すことにするが、改めてその面白さに気づく。勝たなければならないという心の重荷が取れたなかで将棋の面白さを再確認した彼は、アマチュアの将棋大会で頭角を現わすようになり、ついにアマ名人になる。そして話は思いもかけない方向に動き出す。

 将棋界には、アマとプロが対戦するシステムがあるが、心のしがらみが取れ、失うもののなくなったしょったんは、のびのびと将棋を指すようになり、面白いようにプロ棋士相手に勝利を修めるようになっていく。実にプロ棋士との対局の勝率ははるか7割を超えるようになっていった。「いかに奨励会で昇段できなかったとはいえ、プロに対する勝率がこれほど高い人間がプロに昇段できないのはおかしい」という世論が高まり、新聞記者やアマ棋士の有力者の後押しもあり、将棋協会に昇段試験願いを出すことになる。最初はまったく相手にもされなかったが、マスコミの後押しもあり、将棋協会はついに全プロ棋士による賛否投票に踏み切る。賛成129、反対52、白票8。編入試験実施が認められ、6人の棋士(女流棋士1名を含む)を相手に6局のうち3局に勝利すれば合格というルールが作られた。しょったんは今度はそのハードルを見事にクリアする。第5局で3勝(2敗)し、2005年晴れてプロ棋士となったのである。

 10歳で将棋をはじめ、やっと35歳でプロ棋士になる。実に4半世紀かけた見事なリベンジであった。鹿島澤先生は授業のなかで、「悲しんでいる人に寄り添ってあげることも大事だけれど、お友達が成功した時、自分のことのように喜べる人間になるのよ」と生徒たちに教えた。考えてみるとしょったんの人生は35歳になるまで、次々に昇段していく仲間を心の中では泣きながら顔では祝福する、鹿島澤先生の教えを忠実に実践した人生だったのかもしれないが、今度こそ心の底から人生の幸せも喜べる状況がやってきたのだ。

 将棋界は素晴らしい。昨今のスポーツ界のパワハラ騒動で露呈した閉鎖性には目を覆うばかりのものがあるが、世論の高まりや、将棋界を応援している新聞社の後押しに抗しがたいものがあったにせよ、公正に全会員による投票を行ない結論を導き出した民主制は大いに評価されてしかるべきである。

 子供の頃はゲーム機もスマホもなく、自然に将棋や碁ならべをして遊んだものであるが、これだけ趣味が多様化するなかで将棋人口は減少している。危機感をもった将棋界が時代に即応した変革の道を選んだのは当たり前かもしれない。

 その職業が好きであることと向いていることは人によっては大きく乖離する場合がある。ましてや20歳前後で、天職とすべき職業などわかるはずがない。リベンジできる社会を用意しないと、ますます寿命が長くなるなかで、敗者は一生冬の時代を耐え続けなければならない。

Copyright© Department of Neurology, Graduate School of Medical Sciences, Kumamoto University.