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「ヤコブへの手紙」  

  • 2011.02.1

生き甲斐には様々な対象があるが、結局人は「愛」を生き甲斐にして、それに生かされ生きるものだと言える。誰かに必要とされ、誰かのために生きたい。意識しなくてもそういう思いの中で人は生きている。フィンランド映画、「ヤコブの手紙」(クラウス・ハロ監督)は、何よりもそのことを強く訴えかけている。レイラは、大好きだった姉の夫の度重なる家庭内暴力(DV)を見るに見かねてその男を殺してしまう。12年の刑を終え、やっと釈放された。姉を守りたい一心で行った行為のつもりであったが、事後肝心の姉はいくらDVを受けても結局は夫を深く愛し続けていたことを知り、姉の心のよりどころを無にしてしまった罪悪感にずっと苦しんできた。

 

レイラは北欧の中年女性にありがちな肥満体型をしている。殺人犯なので、12年という刑期は一般的には短かすぎるが、ヘルシンキからかなり離れた田舎の田園地帯に住むヤコブという老神父からの度重なる恩赦の嘆願書が功を奏したのか、彼がレイラを引き取る形で今回の恩赦が叶ったようだ。ヤコブ神父は盲目であったが、ずっと以前から光を失っているようで、御茶を入れたり簡単な食事の準備をするなどの家事はできるように学習していた。しかし当然のことながら字が読めない。そんな彼のもとにやってきたレイラは、姉に対する申し訳なさ、人を殺した自責の念、姉から見捨てられたという孤独感、12年の抑圧された刑務所での生活からくる心の荒廃など錯綜した感情が彼女をそうさせるのか、何をするにも投げやり、反抗的で、見ているものがイライラするほど不快な行動をとる。神父に対して感謝の念もなければ、物事に対する感動も共感もない。「こんなところ、どうせすぐに出て行ってやる」。彼女はそう思っている。彼女は神父から、毎日数通やってくる信者からの手紙の朗読とそれに対して返事を書くという、たったそれだけのことを仕事として科せられる。神父として、悩める人の心の悩み、叫びに答え、神へと導きそれを実感させる、そうした作業が年老いたヤコブ神父に残された唯一の生き甲斐であり、心の安らぎであった。

 

ヤコブ神父に対し、レイラはどこまでも反抗的な態度をとる。盲目の神父が感知できないことをいいことに、仕事を減らすために送られてきた手紙の一部を捨てたりする。そんな中、郵便配達人とレイラのトラブルがあった翌日から、ヤコブ神父への手紙がパタリと来なくなる。

 

話はさらに展開していく。ある日いつまでも心を開かないレイラに、神父は衝撃の告白をする。ヤコブ神父がレイラのために嘆願書を書いた最大の理由は、レイラの姉から何度も届けられた、妹を救い出したいとする手紙に心を打たれたからだというのだ。「最愛の妹、この世でただ一人の妹を救うためにどうかお力を下さい」。祈りにも似た思いが数々の手紙にちりばめられていたのだ。ずっしりと重い姉の手紙の束を手渡されたレイラは、その時初めて素直な気持ちになり激しく涙を流す。

 

ある日を境にパタリと手紙が途絶え、生き甲斐を失ったヤコブ神父は、神からも信者からも必要とされなくなったのではないかと孤独にさいなまれるようになっていく。次第に妄想にとらわれるようになっていき、来るはずもない新郎新婦を廃墟となった教会で待ち続け、式を一人で行おうとしたりするようになる。

 
フィンランドは、敬虔なクリスチャンの国である。国民のほとんどはルーテル教会の敬虔な信者である。世界一教育水準が高く、生活水準も高い。「愛は寛容にして慈悲あり」。この思想が広く国民の間に浸透している。だからフィンランドはほかの国より素晴らしい、と短絡的なことを言うつもりはないが、こうした国では、不特定の人のために奉仕する臓器移植医療のような行為が自然に受け入れられるし、不特定の不幸な人のために働こうとする精神が日本人より自然な形で浸透している。従ってヤコブ神父のような心を持った人が育つ裾野が広く、どこかの国のようにタイガーマスク現象が珍事としてマスコミに取り上げられる余地がない。こういう環境の中で、人から必要とされない環境に身を置くようになったとき、より人の心は荒廃していくのであろう。「小人閑居して不全をなす」とはまさにそういうことなのかもしれない。

 

ヤコブ神父は、手紙が途絶えたことをきっかけにして、それまで何とか保っていた自分を失い、心折れ、生きる希望が潰えてしまったのか、ある日ダイニングに倒れ、息途絶えた姿をレイラに発見される。病因は語られていない。この映画の最後はヤコブ神父の棺をレイラが見送るシーンで終わる。彼女の手には、姉の手紙の束がしっかり握りしめられていたのは救いである。彼女はきっとこの後、ヘルシンキに住む姉に会いに行ったにちがいない。ヤコブ神父は死を持ってレイラを再生させたのかもしれない。

 

北欧は、乳製品の過剰摂取、酒やたばこなどの嗜好品の影響、寒さによる塩分の過剰摂取などが原因で生活習慣病、特に糖尿病患者の頻度が高い。ヤコブ神父の失明の原因は語られていないが、最大の原因は闘病病性網膜症であることを考えると、彼もそうであった可能性が高い。

 

糖尿病の三大合併症は腎症、神経症、網膜症である。その中で網膜症は放っておくと確実に失明につながるので注意を要する。糖尿病を発症すると20年位でI型の100%、II型の60%の患者に糖尿病性網膜症が発症する。これによる失明者は年間約3000人ほどであるが、その数は毎年増加している。糖尿病性網膜症の本体は、高血糖によって血管障害が引き起こされ、酸素欠乏状態の結果生じる血管新生である。体の中のどの組織も、神経と血管、リンパ管が縦横に張り巡らされているが、光の通り道である眼の組織に血管が異常に造成すると光が通過できず、ものを見るときに致命的になる。この病気では単純性網膜症、前増殖期網膜症、増殖期網膜症へと進行し、最悪の場合、硝子体出血や網膜剥離を来たし失明に至る。新生血管をいかに未然に防ぐかが視力を温存する鍵になるため治療として網膜虚血部位に対しレーザー照射を用いた光凝固が行われる。治療に用いるレーザー光はかなりのエネルギーを持っているため、短期間に大量の照射を行うと黄斑浮腫のリスクが高まることから、ある程度の期間をおいて数回に分けて施行される。網膜に光が当たると圧迫感や痛みを感じる患者も少なくないが、今や頻用される治療となり、大きな医療トラブルもほとんどなくなってきている。 血管新生を促す蛋白質にはいくつかのものがあるが、VEGFが最も重要なものとして注目されており、これを遺伝子治療などの手法を用いて制御しようとする研究も行われている。

 

フィンランドなど北欧は高福祉、高負担の国である。年金制度や老人ホームは確かに充実していて、生活の基盤が確立しているため、生活苦を訴える国民は少ない。だからこうした国に暮らす多くの人々は幸せかというと必ずしもそうではなく、心の問題が一段と重要になっていく。先日NHKのドキュメンタリー番組でコペンハーゲンの老人ホームが紹介されていたが、なるほど施設は素晴らしく整備されており、至れり尽くせりの介護も受けられるため、多くの老人が入居しているが、その表情がうつろな老人も少なくない。家族の負担がほとんどなくなることをいいことに、一旦親を老人ホームに送り込んでしまうと面会に行かないケースが多いというのである。そこには日本のように、老人の孤独死は少ないが、寂しさにさいなまれたり、生き甲斐を失ったりした老人の自殺者が多いという現実がある。

 

かつて一世を風靡した「誰のために愛するか」という曽野綾子の本のタイトルは含蓄が深い。誰から愛されるか、誰を愛するか、ではなく、誰のために愛するかという言葉は、誰のために生きるのか、ということと同値である。結局自分の死に場所を見つけるために人は蠢いている。

Copyright© Department of Neurology, Graduate School of Medical Sciences, Kumamoto University.