最新の投稿

「災難は忘れた頃にやって来る」ー危機管理ー

  • 2018.01.17

 言うまでもなくボストン・レッドソックスはニューヨーク・ヤンキースと並び称せられる大リーグ屈指の強豪チームであるが、100年以上続く大リーグ史の中で、ヤンキースがワールドシリーズを27回も制覇しているにもかかわらず、レッドソックスは何度も地区優勝を果たしながら1918年から2004年に至るまでの間は一度もワールドシリーズの優勝経験がない。なぜ1918年以降なのか。アメリカ人はそれを「バンビーノの呪い」と呼ぶ。この年、レッドソックスの花形選手であったバンビーノことベーブ・ルースがヤンキースにトレードされている。当時のオーナーであり演劇プロデューサーでもあったハリー・フレイジーがルースのトレード金をブロードウェイ・ミュージカル作品の制作資金に充てるためにトレードに出したという話がもっぱらである。ルースの移籍以降、主力選手がヤンキースに次々に流出するようになった。その後チームを立て直し、再び大リーグの強豪として君臨し続けたが、惜しいところでワールドシリーズのチャンピオンフラッグを逃し続けた。アメリカ人は、ベーブ・ルースの打者としての偉大な記録に加えてその人懐っこい性格から彼を甚く愛しており、「ベーブ・ルースをトレードするから優勝できないんだ」という意味を込め、「バンビーノの呪い」と呼んだ。世の中には、理由は説明できないが、何故かそうなってしまうことをこのような呼び方をすることがある。

バンビーノの呪いという程ではないが、私は、想えば昔から海外旅行というとトラブル続きだったことを、ニューヨーク、JFK空港で成田行きの便を待ちながら思い出している。スウェーデン留学中、夏休みを利用してヨーロッパ一周旅行で訪れたピカソの生まれ故郷、スペイン、マラガ駅。妻と話している隙に、パスポートの入ったショルダーバッグを置き引きに会い、土地の警察に捜索してもらったものの見つからず、夜汽車で8時間かけてマドリードまで行き、パスポートを再発行してもらったことがある。パスポートを持たない「安東由喜雄」が「安東由喜雄」であることを証明することは意外と難しい。スペイン人の日本大使館員は身元確認のために郷里の別府まで電話をかけた。電話口に出た英語の不得意な母に、「Are you Yukio Ando’s mother?」。沈黙が続く中で、私は大使館の電話越しに、「母さん、イエスって言ってくれ!」。私は喚いた。リスボンからストックホルム行きの便で、スーツケースのタグが外れ行方不明になったが、しつこい交渉の末、スーツケースに書いてあった住所が決め手となり1週間ぶりに手元に戻ったことがあった。ローマのテルミニ駅で、浮浪者に胸のポケットの財布を取られたが、追いかけて取り返したことがあった。飛行機が遅れ、ローマ、レオナルドダビンチ空港に深夜に着き、「親切な」タクシー運転手とおぼしきおじさんが、スーツケースをターンテーブルからずっと甲斐甲斐しく持ち運ぶので、その車に乗ったところ、実は白タクで、「1000ドル払わなければ、イタリアマフアに売り飛ばす」と凄まれたが、意を決して戦い、逆にとっちめたことがあった。オールド・デリーで浮浪児に囲まれて身動きが取れなくなった日があった。ニューデリーの学会で下痢・発熱に苦しみ、帰りの飛行機はほとんどトイレがお友達となったことがあった。マレーシアで蛍狩りに行った帰り、盗賊に追いかけられそうになったこともあった。数年前のアイスランドの火山禍で、北回りの航路がすべて閉鎖となったとき、特別講演に当たっていた私は、当初「行きようがない」と高をくくっていたが、イタリア人の会長から、「南回りで来るべきだ」と矢のような催促があり、意を決して、成田―アブダビーアテネーローマと経由して35時間かけて学会いりしたこともあった。あのときは帰れるかもわからなかった。この時スーツを忘れて持参せず、Tシャツで発表したのを覚えている。アムステルダムでの学会に行くのに、インチョン空港で乗り継ぎ便の時間がなく、スーツケースだけ積み残され、結局学会が終わった日にホテルに着いたこともあった。その間着替えもスーツもなく、ずっと機内で着ていたカーディガンで震えていたことを覚えている。

 さて昨年の4月から医学部長を拝命した。正確に言うと、生命科学研究部長、大学院教育部長の三役を同時に拝命したので自分の時間は無きに等しく、海外の学会、研究打ち合わせに行くのも難しくなった。海外渡航は組織の長として危機管理上も望ましくはないことは言うまでもない。昨年は香港に1日、中国、済南に2日といった具合に短期の近距離海外出張のみを何とかこなしたが、今回は正月休みを利用してニューヨークに国際共同研究のために行くことになった。「正月くらい大学の雑事を逃れて、研究のことを考えながら、高校から親元を離れた大学生の息子とクロストークをするくらいは許されるだろう」と思いたった。息子を伴って201811日朝、熊本を発ち、成田からニューヨークへ向かった。2日、3日といずれも日中に仕事を済ませ、2日の夜はブロードウエーで「ライオンキング」の観劇、3日の夜はプロアイスホッケーのニューヨーク・レインジャーズの試合を観に行った。ミュージカルは何といっても本場、ミュージカル俳優を目指して一万人が世界から集まってきているという中で、俳優(この場合はストーリー上黒人か多いが)の声量、リズム感、コーラスの美しさに改めて舌を巻いた。アイスホッケーの方は、やはりテレビで見るのとは大違いで、氷上でぶつかり合う選手の迫力とスピードに度肝を抜かれた。

私がライフワークとしている疾患の治療を睨んだ共同研究の話し合いは旨く行き、やはりフェイスツーフェイスの話し合いの必要性を感じ、来てよかったと思ったし、最近は会話が乏しくなっていた息子と、旅を通して絆を再確認できた。今年のニューヨークは異常に寒く終始零度以下で、移動はいずれも冷蔵庫に入ったような、肌を刺すような痛みを感じたが、3日の夜の早い時間には、次の日の朝の出発を前に無理を押して来てみてよかったと自己満足の世界に浸っていた。

ところがそこに飛び込んできたのがテレビの天気予報である。「4日の朝のニューヨーク地方はブリザードが予想され、すでにJFK発着の276便がキャンセルされています」。眩暈がした。明日出発して5日中に熊本に帰らなければ翌6日は年に一回の神経内科同門会がある。神経内科の同門が一堂に会し、池谷裕司さんや特別講演者も東京や新潟から呼んでいる。同門会長兼神経内科の主催者が公用にせよ出席できない。そんな馬鹿な!

即座にフロントデスクに駆け込んだ。「明日の飛行機は1045発だが、いつ出発したらいいだろうか」「ご存知の様にマンハッタンからJFKまでタクシーで3040分ですが、吹雪の中では2時間は見ておいた方がいいでしょう。朝7時には出発しないと。でも欠航する可能性も高いでしょう。ニューヨークの空港は結構欠航します」。果たして4日朝6時に身繕いをし、7時にタクシーでJFKに向かった。吹雪をかき分けるようにゆっくりと車が進む。空港にやっと着き、まずは出発ボードを観た。「成田行き009便、午後930発」。多くの便がキャンセルされている中で、成田行きは約11時間の遅れにせよ日本に向かい、夜1130には着くというではないか。次の日早い便で成田から福岡に向かい新幹線で熊本に向かうと同門会には間に合う。「やったー!」私は思わず叫んだ。しかし詳細は省くが最終的にはその日の飛行機は飛ばず、同門会にも間に合わなかった。

この1年間を象徴するような出来事なのかもしれない。「人は常に自然を学ぼうとしない」というが、医学生に「危機管理こそ医師として、男として最も重要なことだ」と常々言ってきた私が穴があったら入りたいような出来事である。寺田寅彦の「天災は忘れた頃にやって来る」という言葉を以前にこのコラムで紹介したが、私が旨としなければならないのは「災難は忘れた頃にやって来る」という言葉か?!

Copyright© Department of Neurology, Graduate School of Medical Sciences, Kumamoto University.