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「私のオランダ学会顛末」-何たる失態か

  • 2012.06.1

2010年、ローマで行われた第12回世界アミロイドーシス学会は、件のアイスランドの火山禍で北回り(北極)の飛行機が一切使えず、南回りのみが運航可能であった。講演をすることになっていた私に、イタリアのメルリーニ会長から「北回りがダメでも南回りで来れるでしょう」というヒステリックなメールが舞い込み 、悩んだ末、私は仕方なく成田―アブダビーアテネーローマ)という経験したこともない経路で、トータル33時間20分の時間をかけて倒れこむように深夜のローマに着いた。メルリーニ会長は粋な男で、ローマまで最も時間をかけてやってきたファー・イーストの友人ということで、学会の最終日、”The longest travel award”をくれた。私には何にも替えがたい宝物となった。

 

そして2年後、今度は、オランダのグロニンゲンで第13回目が開かれる。5月6日、ゴールデン・ウイーク最終日の出発で、連休後にやってくる雑事の処理をすべて捨て去って日本を離れなければならない後ろめたさもあり、何となく気乗りのしない海外出張であった。「よもや2年前のような突発的なことは起こるまい」。今回は、火山禍もなく明らかに油断 があった。忙しさにかまけて、「どうせオランダも春だ。日本とそれほど気温は変わるまい」と高をくくり、コートはスーツケースの中、手荷物には薄手のセータだけをもっただけのまさしく春のいでたちでの出発であった。

 

そう言えば出発の数日前、家内が不吉なことを言っていた。「今日のニュースでね。北朝鮮が韓国の飛行機のGPS機能を破壊するため、妨害電波を出して、200機くらいが手動で操縦しなければならなかったんだって」。「何をバカなことを言っとるんじゃ」。今回は大韓航空を使用することにはなっていたが、私はこの言葉には歯牙にもかけず忘れていた。

 

5月6日朝7時、いつものように妻に送り出され、車で福岡国際空港へ向かう。8時過ぎ到着。福岡発10時30分発、11時50分インチョン着、12時50分インチョン発、17時15分アムステルダム着、18時10分アムステルダム発の列車に2時間半ほど揺られ、20時40分にはグロニンゲン着の予定であった。し かし、そもそも私の秘書が作ったこのスケジュールには不満があった。インチョンはだだっ広いエアポートタウンのような空港である。インチョンでのトランスファー時間は1時間と短く、もし福岡発の便が遅れた場合、アムステルダム行の便に本当に乗れるのかということであった。「でも多分大丈夫」。こんな時、いつも私は楽天的である。

 

果たして福岡空港について仰天した。カウンターのお姉さんが、「インチョン行きは2時間遅れ、12時30分出発です」。「済みません」もなければ、共感もない。木で鼻をくくったような言い方である。「こんなことは茶飯事で、飛行機の利用者はそれを受け入れるが当たり前」と言いたいのであろうか。私ははっとした。これが家内が言っていた「北朝鮮のGPS錯乱作戦か!」。キムヒョンヒの顔、キムヨンナムの顔が浮かんだ。飛行機を爆破されたらどうしよう。−まさかそんなことはあるまい。なんとなく不安が よぎった。

 

私は食い下がった。2日に一度しか運航していないコリアン・エアーのインチョン発オランダ行はこれを逃すと明後日発となり、学会の核心部分は終ってしまう。結局すったもんだの末、福岡からのインチョン経由、オランダ行の乗客が4名いるとの理由で、インチョン発を約2時間遅らせ、我々の到着を待って出発するということになった。やれやれ。ところが、実際に福岡を出発したのはさらに30分遅く、13時となった。インチョン行の飛行機の中でフライトアテンダントが、「インチョンに着いたら、次の飛行機のゲートまで走ってください」と他人事のように笑った。無性にむかつく。インチョンに着くと、男性係員がわれわれ4人を待っており、脱兎のごとく走り続けた。あまりのきつさに私は歩いていたら、「そこの日本人、走ってく ださい」と怒鳴り声が聞こえた。

 

やっと目的の出発ゲートに着いたとき、その地上係員は急に優しい口調になり説き伏せるように私に告げた。「荷物までは積み込む時間がありませんので、別便で送ります。必ずあなたのホテルまで届けますから」。これにはさすがの私も逆上した。「荷物を積み込むのに何分かかると思っているんだ。待つべきだ。荷物が積み込まれるまで、俺は乗らん」。結局何人かの係員に説得され、「気の好い私」は「あなたがごねると他の乗客が困りますよ」という殺し文句に折れ、しぶしぶ機上の人となった。

 

結局アムステルダム行の飛行機は予定より更に30分遅れ、午後3時ごろやっと飛び立った。機内でチーフパーサに事の顛末を話し次善策を協議したが、地上と交信して結論を出したというパーサーの説明にまたまた怒り が込み上げてきた。「インチョンーアムステルダムは週に4便しか出ていません。従って、明日、オランダンにあなたの荷物を届けるのは無理です。早くて明後日です。」「僕の旅は4泊6日ですよ。だったら私のオランダ滞在の半分以上が必需品なしで終わってしまうじゃーないですか。」「如何とも仕様がありません。アムステルダムに着いたら、とにかく、手荷物受取所の係員に相談してください。」ここでも問題の先送りとなった。

 

極めて不快な思いのまま、11時間のフライト時間が流れ、暮れなずむスキポールアムステルダム空港に着いたのは午後8時であった。手荷物受取所はわかりにくい空港の片隅にあった。必要な書類を書いた後、説明があっ た。「明日はコリアン・エアーが運航していません。アムステルダムからグロニンゲンのホテルまでなるべく早く届けます。ビジネスクラスご利用ですから、格別の計らいです」。全く有難味のない説明に、私はあきれた。要するに待つしかないのだ。

 

次々に飛行機が遅れたしわ寄せで、グロニンゲンのホテルに着いたのは結局深夜零時を回っていた。往復の列車チケットを買う予定が、切符売り場がわかりにくく、切符を持たずに列車に乗り込んだところ、車掌に「法外の追加料金を課す」と脅かされたが、最後は「今回は許す」とのことほっとしたのもつかの間、グロニンゲン駅に着くとそこは寒く、カーディガン一枚では夜風が異常に身に染みる。ここはサハリンよりもずっと北に位置する北ヨーロッパなのだ。

 

パスポートをスペインのマラガで擦られ、夜行に乗ってマドリードまで向かい、再発行してもらったこと、スウェーデン留学中、リスボンからの飛行機に乗せた荷物が着かず、次の日空港に受け取りに行ったこと。フィラデルフィアに夕方着く予定の飛行機が遅れに遅れて、深夜に着き偉く怖い思いをしたこと、学会中友人の荷物が1−2日遅れて着いたり、無くなったりしたことなどが走馬灯のように頭の中を過った。それにしても自分が最も大事にしている学会でまさか2日も「生活物資」が到着しないなんて。

 

家内がいつもつめてくれる私の海外旅行の七つ道具は以下のとおりである。UFO焼きそば、どんべー、味噌汁、シーフードヌードル、ティーバック、いくつかのお菓子、スーツ、下着、歯ブラシ、シャンプー、靴下、ネクタイ、コート、スーツ、携帯用ウオシュレット、若干の本、DVD、傘、家内からの手紙、そして頼みの綱の電気ポットなどである。中でも電気ポットは、世界の津々浦々どこに行っても暖かい お湯を提供してくれ、疲れたときの日本茶は例えティーバックでも心が癒される。

 

二日間、夜になると下着だけは石鹸洗い、翌朝半乾きのものを着て学会場に向かうと言った生活が続いた。学会場では、フランクなポロシャツに薄手のカーディガンで闊歩し、質問やコメントを続けた。アメリカ系の研究者はTシャツというスタイルも少なくないため、学会場にいればむしろ恥ずかしくはなかった。結局三日目の私の発表、その日に行われた教会での晩餐会までにはスーツケースは届いたが、ま た一つ「勉強」をした海外旅行であった。やれやれ!

Copyright© Department of Neurology, Graduate School of Medical Sciences, Kumamoto University.