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「ポエトリー ―アグネスの詩」 アルツハイマー病の初期像

  • 2013.11.1

66歳になるミジャは、韓国の地方の都市で中学生になる孫のチョンウクと二人で暮らしている。住んでいるアパートは、2Kの狭い古びた部屋だ。娘は訳あって釜山に住んでおり、収入はミジャのスーパーの社長を介護するヘルパーとしてのお金と生活保護だけのようである。それでもこの初老の女性は、それなりに人生を楽しんでいる。決して高級ブランドというわけにはいかないが、おしゃれもして、無料の文化教室で詩作の教室に通ったりもしている。小さい頃から貧しい家庭に育ち、誇れることは何一つないが、小学生の頃、たった一度だけ学校の先生から「ミジャは詩がうまい。詩作の才能がある」、と言われたことがずっと心に残っていた。「機会があれば詩を書いてみたい」とミジャは思っていたに違いない。文化教室の先生は聴講生に講義が終了する一ヵ月後に一つ詩を書くようにと宿題をだす。映画「ポエトリーーアグネスの詩」(イ・チャンドン監督)の始まりである。

 

ある日ミジャは、右肩痛のため病院に行くが、その時医者から意外な病名の宣告を受ける。ここ何年か物の名前がすぐには出てこないなどの症状から、医者はアルツハイマー病の可能性があることの方が重大だというではないか。しかしミジャは、その言葉に別段取り乱すわけでもなく、またきちんと向き合うことなく淡々と日常生活に溶け込んでいく。

 

ある日、チョンウクと仲良しのグループの男子生徒の父親から突然携帯電話に連絡が入る。すぐに会いたいという。出かけて行った会合の場所には他の五人の生徒の父親たちが沈痛な面持ちで集まっていた。チョンウクが主犯という訳ではないが、六人の仲間が数ヶ月に渡って入れ替わり立ち代わり同級生のアグネスという女子生徒を強姦し続け、耐えられなくなった彼女が自殺したというのだ。彼女は川に身を投げ、短い命を絶った。そういえば、ミジャが病院を訪れたとき、救急車の傍らで、呆然と立ち尽くし、娘のことをうわごとのようにつぶやき続ける中年の女性の姿があった。

 

どうも今の韓国は日本とリアルタイムでシンクロしながら物事が動いているようだ。学生の非行は深刻で、特に学級崩壊や性的暴力は社会問題化している。唯日本に追い付いていないのは、情報の公開である。会合の場でしきりに話し合っていることは、如何にしてことを隠ぺいするかであった。アグネスは母と妹の三人暮らしで、家は貧しい農家であった。親たちはアグネスの母にお金を積んで示談に持ち込み、学校、警察、地元の新聞社にも根回しをして、事件を隠蔽しようという相談していた。韓国の法律では、婦女暴行犯が未成年の場合、告発されなければ警察は動けない。提示した金額は3000万ウォン、それを六分割しようというが、ミジャには500万ウォン(日本円で約50万円)など用意できるはずもなかった。

 

あるとき詩作教室で「人生に於ける最も美しい瞬間」を語りあう企画があった。受講生がそれぞれそれまでの人生で遭遇した感動的な話をするが、ミジャは幼い頃の些細なことで褒められた経験を語りながら涙する。いつも最下層の生活を営んできたミジャは、褒められたこともほとんどないし、人を感動させるようなエピソードもない。そんななかでミジャの心に残っていたのは自分の価値を認められた数少ない思い出であった。

彼女がどんな人生を送ってきたのかは不明であるが、過酷な状況に正面から向き合うとしない。きっとこれまでの人生幾多の困難があり、まるで他人事のようにやり過ごさなければきっと自分が保てなかったのであろう。その都度難問に正面から向き合っていれば、問題の多さに自分がぼろぼろに壊れてしまうという生活の中で獲得した自己防衛本能であったのかもしれない。自分の孫が信じられない非道なことをしたと知っても、彼と正面からは決して向き合おうとはしない。チョンウクのために淡々と食事を作り、学校に送り出す生活を続ける。これを続けるしかなすすべがなかったのだ。

 

ミジャは、事件を知る前のことだが、脳卒中の後遺症で半身不随となった社長の死ぬまでにもう一度性の快感を得たいという煩悩の塊のような思いに一度だけ応てしまうが、結局お金の工面で思いついたのは、その社長にすがることであった。彼女の人生はどこまで行っても惨めであった。

 

ミジャは、夢遊病者のように詩作にのめりこんでいくがそのすべがわからない。そんな中で彼女は教室の先生の「あなたはリンゴを見たことがありますか?いいえ、本当のリンゴは見たことはありません」という言葉にひきこまれていく。ミジャはそれまでただ漠然とかわいいもの、綺麗なものをみてきた。しかし目の前にあるものを眺めるだけでは、そのものの本質を見ていることにはならないし詩にならない。伝えようとする声を持っている万物の声を聞くことができてはじめて心を打つ詩が生まれることを詩作教室を通して学んでいく。

そうした中、アグネスの死を知り、当初応じようとしないアグネスの母の説得に行かされ、自然の中で一生懸命農作業をする母親の姿を見ていくうちに彼女の詩心が呼び覚まされていく。最後は一遍の透明な詩を残し、アグネスが絶望して身を投げたのと同じ橋の欄干から美しい自然の中に溶けむように身を投げ帰らぬ人となる。

 

アルツハイマー病の原因は脳に老人班と呼ばれるアミロイド斑が沈着することが引き金となり神経細胞が変性していく疾患である。最近の研究から、アミロイドの脳への沈着開始時期と症状の発現時期には約20年の時間差があることが判ってきた。ミジャの場合は40歳代にすでに老人斑の沈着が始まっていたことになる。初期症状は、少し物忘れをする程度で一般の人には普通の物忘れとは鑑別がつき難いが、専門家が詳細に診察するとその違いがわかる。日常生活は普通にでき、昔の記憶は保たれてるが、数日前に人と会ったこと,数時間前に電話でしゃべったことは忘れてしまう。物をどこに置いたか忘れてしまって、一日中、ものを探している場合もある。多くの患者では、自分の記憶が失われていくという病識を持っているため、診察室で物忘れをしきりに訴え、記憶力テストなどでできないと謝ったりすることは少なくない。脳血管障害で記憶を支配する脳を支配する脳を潤す血管が詰まったり破れたりするとやはり認知症を呈するが、「まだら認知症」と呼ばれ、記憶力は落ちているが、計算は大丈夫といった具合に、脳の高次機能の部分的な障害を来す場合が多い。また慢性硬膜下血腫、正常圧水頭症など治療で改善する認知症もあるため、認知症患者を診たらアルツハイマー病と決めつけてはいけない。

 

ソウルやプサンに行くと痛切に感じることだが、走っている車の形、ネオンサイン、店先に並ぶ商品など日本のものと大差はなく、言葉の違いと車が右側通行であることを除くと日本にいるような気持ちになる。そんな中で製造業の躍進は目覚しく、電化製品などは日本のものよりかなり工夫が凝らされていて、より優れたものは少なくなくなってきている。たとえば蚊の多く発生する東南アジアに輸出するエアコンなどは、稼動中、蚊の嫌がる周波数を発生するといった付加価値を付け、現地での販売促進につながっている。こんな努力が身を結んでいるのか、世界の空港の待合室のテレビは、サムソン製のものが席巻している。

 

しかし一方で前述のごとく、韓国社会は不透明な部分が多いのも事実である。韓国の知り合いが先だって某大学の学長選に出馬したが、こうした選挙は票の買収はつき物のようで、何と日本円にして1億円近く使った挙句、落選してしまったそうだ。韓国において学長になるということがそれほどの金を払っても付加価値を生むことなのかと唖然とする。目覚ましい経済の発展の陰で、公的役職や就職の選考、法の裁きなど未だに韓国社会は利益相反に関する概念が日本よりも希薄であると指摘する声は少なくない。

Copyright© Department of Neurology, Graduate School of Medical Sciences, Kumamoto University.