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「フレンチアルプスで起きたこと」-男の本性

  • 2015.11.1

熊本大学大学院生命科学研究部、神経内科学分野 安東由喜雄

 エストニア号海難事故の生存者:男性22%、女性5.4%、メイン・サンプル海難事故の生存者:男性37.4%、女性26.4%。いずれも男性の生存者率が有意に高い。この理由は、荒波の海の中で生き抜く身体能力が男性の方が高いからだとする見方もある一方で、男性が真っ先に逃げるからだとする驚くべき解析結果もある。大きな列車事故に巻き込まれ病院のベッドで目覚めたときの第一声が、女性は自分よりも先に家族や周囲の安否を気遣うものであるのに対して、男性はまず第一に自分の下半身のことを気にする、という笑い話は男性としては笑えない。

女性の母性は「子供を守り育てる」ものであることは誰一人として疑わないが、男性の、「家族を守り外敵に立ち向かうべき性」という幻想は、現代社会の中で一段と揺らぎつつある。経済力もインテリジェンスもある女性が母親である場合、よほど完璧な理性と正義感を持った男性を伴侶としない限り、円満な家庭生活を営み続けることはできないのかもしれない。

映画「フレンチアルプスで起きたこと」(リューベン・オストルンド監督)はバカンスで訪れたフレンチアルプスで起きた雪崩に対する対応で、家族に対して夫として、父親として「男らしさ」を発揮できなかったトマスと家族が繰り広げる「情けない」物語である。

あるスウェーデンの四人家族がフレンチアルプスの麓に五日間のスキー旅行にやってくる。普段は仕事ばかりで忙しく働いているトマスはここぞとばかりに家族サービスに張り切ろうとする。それは美しい妻エバと小学生の娘のヴェラ、息子のハリーを愛していればこそのことだ。一日目は家族四人で疲れ果てるほどにスキーを楽しみ、二日目も朝からスキーを楽しんだ後、景色の良いテラスレストランで昼食をとる。四人の満足度は頂点に達していたのかもしれない。とその時、爆発音と共に目の前で雪崩が発生する。テラスの人々は、スキー場が人工的に爆発音で雪崩を起こし、ゲレンデを管理していることを知っていたので、その一環であろうと高をくくり、当初はそのダイナミックな光景をカメラに収めたりしていた。ところが、雪崩は予想をはるかに上回る勢いでテラスに向って迫ってくる。パパ、パパと叫ぶ子供たち。一瞬にしてその場は人々の悲鳴に包まれ、一寸先も見えないくらい雪煙におおわれる。しばらくしてことが収まり次第に視界がはっきりしてくると、実は雪崩は大事には至らなかったことがわかり、人々は茫然自失だった状態から我を取り戻す。ところがトマスがいない。エバはしっかりと子供たちを抱きしめ、その場で耐えていたが、何とトマスは、手袋とスマホを握りしめて一目散に逃げていたのだった。エバも子供たちもトマスのこの女々しい行動を知り驚き失望する。

「夫は自分たちを守ってくれなかったばかりか、真っ先に逃げた。こんな男とこれからも暮らしていかなければならないのか」。エバは直後から結婚生活自体に不安と疑問を抱き始める。その日の夜、エバは堰を切ったように語り始める。「雪崩の時、あなたは確かに逃げたわね」。「いや僕は逃げていない。それは君の思い違いだ」。逃げた、逃げないの押し問答はしばらく続き、トマスは何とか見解の違いということにして、この「事件」を葬り去ろうとする。しかしその態度にエバはさらに失望していく。子供たちも目の当たりにした恐怖心と父親の期待外れの行動に放心状態が続く。三日目、何とか気を取り直そうとするエバであったが、不信感は募る一方で、一日中子供たちをトマスに預け、一人でスキーをする。トマスの方も、自分が取ったとっさの行動に失望し、自分を恥じどんどん追い込まれて行く。そして夕食で同席した見ず知らずのスキー客にも夫の行動のことを話さないではいられないエバの態度にさらにトマスはとどめを刺される形になる。楽しいはずのスキー旅行に暗雲が垂れ込める。特にトマスにとっては、スキーの技術を教授しながら「父親」を見せつける格好の休日であったはずであるが、残りの時間が一転して苦痛以外の何物でも無くなってしまう。純真な子供たちは次第に「自分たちのパパ」を取り戻していくが、自立し、インテリジェンスの高い妻はそうはいかない。決してトマスのことを表だって攻めたりはしないが、その視線は冷たい。遂に帰る前の日の夜中、トマスは感極まって泣き出してしまい、止まらなくなる。それに気づいた子供たちは、「パパ、パパ、泣かないで」とパパに抱き着くがエバは躊躇する。

五日目、帰る前に最後にもう一度四人でスキーをすることにする。雪が降りしきる中で視界不良なスキーだったが、案の定、最後尾で滑っていたエバがはぐれてしまう。一寸先が見えない。必死でエバの名前を呼ぶトマスに、「助けて、トマス」というかすかな声が聞こえる。果たして無事妻を救出し、エバを抱きかかえて子供たちの前に現れたトマス。夫、父親としての面目躍如たるところといきたいが、果たしてこの家族は今後どうなっていくのだろうかと一抹の不安がよぎる。きっと聡明な妻エバは、離婚はしないが、不信を抱きながら一層子育てに精力を傾け、トマストとの距離を広げていくのではないか、という気がしてならない。

太古ヒトの社会は母系家族であった。男はミツバチがそうであるように、外敵と争い、子孫繁栄のために獲物を運び、自分の家族を守ってきた。近世になり父系家族が構築されるが、現代はまた母系社会に戻りつつあるといっても過言ではないかもしれない。仕事で不在がちな夫、セックスレスが当たり前といわれる夫婦。そんな中で太古のように外敵から襲撃される心配もなく、食料も潤沢にある現代社会の中で、男の存在はまさに風前の灯火の様なものなのかもしれない。特に生活力のあるインテリジェンスの高い女性は、男がいなくても十分生きていける環境にある。困ったことだ。

戦後70年を迎える今日、日本では中東のように毎日戦闘を繰り返している環境とは異なり、男が身を挺して家族を守らなければならないことなどあり得ない。しかし一方で、家族は「父親は突然の危機が襲ってきたときは家族を守るために立ちあがるものだ」と決めてかかっているし、そうした意識が男の存在感を保証しているといっても過言ではない。男という性は、丁度エバが遭難しかけた状況で、トマスが躊躇せず助けに行ったように、状況が把握できる環境では力を発揮できるが、予期せぬ環境の中でのとっさの対応には不得手な生き物なのかもしれない。もしかすると、太古備わっていたそうした対応力が、進化の過程で抜け落ちていったのかもしれない。

「フーテンの寅さん」のセリフではないが男はつらい。ハリウッド映画では、西部劇のガンマンからインディージョーンズに至るまで、男が火急の時にわが身を挺して危機を脱出する危機管理能力の素晴らしさをいやというほど描いて、人々に「男」を定着させてきた。女性の社会進出が益々加速化され、男性の職業すら女性に席捲される現代社会の中では、男の存在感は、いざとなったら、「僕が君を守る」というドグマに他ならないのかもしれない。しかし一方で小説も漫画も映画も益々こうしたヒーローを描き続けるため、男らしさのハードルは上がるばかりだ。男らしさとは、本当は頭脳明晰にして知的に危機管理を果たす能力だ、などといっても、益々負け犬の遠吠えにしか受け止められない状況がある。

この映画を家内と共に見た。恐る恐る「僕に映画の様な場面で失望したことは?」と問うてみたところ笑っていた。後何十年続くかわからない夫婦生活の中で、こうしたとっさの判断を必要とする場面に遭遇し、老醜をさらけ出さないことを祈るばかりだ。男は一生試され続けている。だから、いつもこうした状況をシュミレーションして生きなければならない辛い生き物なのだ。

Copyright© Department of Neurology, Graduate School of Medical Sciences, Kumamoto University.