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「バケモノの子」-父と子の関係

  • 2016.01.1

熊本大学大学院生命科学研究部、神経内科学分野 安東由喜雄

 

九歳の蓮は不幸で孤独な少年である。なぜなら母を交通事故で突然失い、心の通わない親戚に引き取られようとしているからだ。さらに好きだった父はすでに離婚して母方の親族は父親に何も知らせようとはしてくれない。「何故パパは迎えに来てくれないんだ!」。蓮は痛切な心の叫びとともに家を飛び出し、渋谷の街を当てもなくさまよっていく。そこに突然クマのバケモノ、熊徹が現れる。猿のバケモノである多々良に「そろそろお前も弟子を取ったらいいじゃないか」とけしかけられ、まんざらでもない熊徹は蓮を誘う。蓮は最初は恐る恐るではあったが、行くあてもなく彼らについてバケモノたちが棲む街、渋天街にはいっていく。映画、「バケモノの子」(細田守監督)の始まりである。

 

その日から熊徹は、蓮を自分の家に弟子として住まわせ、豚顔の僧侶、百秋坊と多々良も加えて渋天街での四人?の奇妙な生活が始まる。熊徹はいつまでたっても名前を言わない蓮に、九歳であることを理由に九太と名付ける。彼は、粗野だが実直な性格のためかバケモノ界の長老、宗師に可愛がられており、引退間近な宗師の椅子を猪王山と争っていた。「人間の子九太を弟子にとった」という熊徹に、猪王山は対抗心を露わにしながら、「人間は、心に闇を抱えている。バケモノの世界では危険だ」と、意見するが熊徹は耳を貸そうとしない。この二人はいずれ戦うことになる。

 

九太(蓮)は、次第に熊徹の、裏表のない性格を受け入れるようになっていく。何より熊徹は強かった。毎日熊徹の全く我流だが、力強く切れのある技の伝授を受ける九太(蓮)は、次第に強くなっていく。熊徹は九太に徹底的に格闘技の技を教え、身体も心も大きくなっていく。

 

渋天街で熊徹の修業を受けてきた九太は、いつしか十七歳になる。ある日のこと、熊徹と激しく喧嘩して自暴自棄になり渋天街を歩いていたところ、路地を抜けて渋谷に行きついてしまう。久しぶりに目にする人間の世界。知識欲旺盛な九太(蓮)は渋谷の図書館で本を読読み漁るうち、自分はやはり人間の子、蓮であったことを思い出す。蓮は楓という女子高生に出会い、意気投合して勉強を教わるようになる。九歳から人間の教育を受けていない蓮であったが、一心に学ぶ姿に心打たれた楓は、高卒認定を受け大学に行くことをと勧める。進学のための補助金を得ようと、手続きを行うために市役所で住民票などを調べたところ、父親の住所を知り、再会するが、久しぶりに会った父親に蓮は戸惑いを隠せない。

 

時は流れ、渋天街では、遂に熊徹と猪王山が宗師の座を賭けて雌雄を決する日がやってくる。宗師は、神となり、この戦いで勝ったものに次の宗師の座を明け渡すことになっている。九太が自分のもとを去り、冷静さを失っていた熊徹は猪王山に負けそうになるが、そこに九太が応援に駆け付け、一緒に修行していた頃を思い出した熊徹は、最期の力を振り絞り猪王山を倒し、見事、宗師の座を勝ち取ることになる。しかし、父、猪王山の敗北を認められない一郎彦は、熊徹に背後から念力によって刀を突き立ててしまう。実は、一郎彦は九太(蓮)と同じく人間の子であった。渋谷の路地裏に捨てられた赤ん坊だった彼を猪王山がかわいそうに思い拾って育てたのだった。

 

自分が一向にバケモノらしい姿にならないことを思い悩んだ一郎彦は、いつしか心に闇を抱えるようになってしまっていたのだった。人間は一旦心に穴が開いてしまうとなかなか自己修復ができず、怖い存在になってしまう。そして負のサイクルが回り、自分のことしか目に入らなくなる。そこにジェラシーが加わると大変だ。一郎彦には九太に同じ人間同士の対抗意識があり、その心は制御不能となっている。この事態を収拾すべく九太は敢然と立ちあがる。

 

九太(蓮)は、渋谷にやってきた一郎彦と壮絶なバトルを行うことになる。一郎彦の心の闇は鯨に自らの姿を変え、強靭な力を持っていた。九太(蓮)は、一郎彦を自らの心の闇に取り込み、死のうとするが、そんな彼のもとへ、瀕死の熊徹が現れる。熊徹は、傷ついた体で宗師に「自分を先に神にならせて欲しい」と願い出て、九十九の神となり、刀に姿を変え、九太(蓮)の心に飛び込んでいく。彼は一郎彦の心の闇を熊徹と合体した心と体で一郎彦に果敢に挑み、遂に一郎彦は息絶える。すべてを収集した九太(蓮)は、人間界で父親と一緒に暮らすことを決め、大学に進学することを目指して勉強に励むのだった。

 

「バケモノ」と言われるとどうしても怖さが先行するが、この映画を見ていると、バケモノより人間の心の闇、「業」の方が余ほど奥が深くて恐ろしく、「バケモノ」自体にのように思えてくる。熊徹はあらゆる生き物に対して偏見がなく、一切差別的な見方をしない。だからバケモノにとって忌まわしい人間の子供も弟子としていとも簡単に引き取ることができたのだ。

 

我々人間、とりわけ日本人は身内の一大事となるとわが身を投げうっても守ろうとする。肝臓移植のために自分の肝臓さえ差し出そうとする。一方で脳死肝移植となると相手の顔が見えない不特定の対象になるため、ドナーは一向に増えず、臓器移植法が施行されて久しい今も、ドナー臓器は圧倒的に不足している。わが国ではキリスト教の博愛の精神が浸透している西欧社会と比べて、目に見えない不特定多数に奉仕する精神に乏しい。大乗仏教も素晴らしい理念を持ち、そうした思想が根底にあるものの、キリスト教の様な表向きのメッセージが伝わって来ないのは残念なことである。人間は見ず知らずの他人のためにいったいどれくらい一生懸命できるのか。それは教育、道徳のなせる技に他ならない。

 

熊徹のような師匠、友達に人生で一回でいいから出会ってみたいと思うが、実際に付き合っていくのは大変で、毎日顔を突き合わせていると喧嘩が耐えないタイプの人物なのかもしれない。

 

この物語は両親を失い一人ぼっちになってしまった不幸な少年が、偶然強いけれど身勝手な独り身のバケモノと出会い、抵抗しながらも彼に惹かれ、いつしか本当の親子にも負けない絆を作っていく物語である。少し粗修行だがバケモノの世界の中で熊徹の力を借りて九太は成長し、最後は人間の子蓮として新たな気持ちで巣立たせる熊徹は彼にとって父親そのものである。ある意味でこの二人は実の親子以上の絆がある。

 

父親と息子の関係は難しい。母親と息子の関係のように常に子供を信じて無償の愛を提供し続ければ良いというわけにはいかない。世の中の荒波を渡っていくには知力、気力、そして体力が必要であり、男親の責任としてそれを教えていかなければならない。腕力だっていざというときのために強いにこしたことはない。言うまでもなく父親と息子は50%遺伝子が同じである。男子の場合、その行動パターンは父親から受け継がれた遺伝子が規定するものも多いが、環境要因で形成されるものも重要である。良きにつけ悪しきにつけ、幼い頃から必然的に垣間見てきた父親の立ち振る舞い、仕草が身についていて、いつの日か傍から見ると息子は父親そっくりになっていく。だから父親たるもの、決して恥ずかしくない自分の後姿、生き様をしっかり提示しながら生きていくしかない。

 

私自身がそうであったように半分違った遺伝子を持つ個体である子供が父親を否定しながら成長していくのもその違った遺伝のなせる技かもしれない。娘と父親も半分は同じ遺伝子を持つがその関係はさらに難しくなる。思春期になると父親を観る目は厳しくなっていく。尤も娘は小学校の低学年までは父親と風呂も入れば手を握ったり、両者の間の物理的距離が短い「ラブラブ」な状態が続くが、思春期になるといざ「風呂に入ろう」などといった日には「マー、エロイ」と軽蔑されてしまう。これは娘と父親の近親相姦を避けるための「生体防御反応」であり、50%の遺伝子の違いに加えて、相容れないXとY遺伝子のなせる技なのかもしれない。

Copyright© Department of Neurology, Graduate School of Medical Sciences, Kumamoto University.