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「ホテル・ルワンダ」その2-チャールズ・マンブール(Charles Mambule)のこと

  • 2016.04.1

熊本大学大学院生命科学研究部、神経内科学分野 安東 由喜雄

 

前号で映画「ホテル・ルワンダ」について書いた。アフリカの大地のどこかで部族が違うというただそれだけの理由で、今なお殺戮を繰り返している。アフリカでは久しい以前から現在に至るまでそうした状態が続いていると書いた。皮肉なことにアフリカの多くが植民地支配されていた時代は、アフリカ人は搾取ばかりされ、奴隷のように働かされ、虐げられてきてはいたが、白人という共通の「敵」が存在し、力は持てなかったが、部族間抗争をする余裕はなかった。植民地支配を終焉させるために一つになって戦い勝ち取った独立の後、今度は部族間抗争で再び民衆が苦しむようになろうとは夢にも思わなかったに違いない。「争う」というヒトが獲得した性は、太古の苦しい環境で生き抜き、猛獣と闘うためには必要不可欠のものだったが、現代人の脳の思考回路の中に、「闘争」を知性や理性で完全に制御できる回路を持つほどにまでは進化していないところが悲しいところだ。

 

私は1996年から1998年にかけて客員教授としてスウェーデンの北極圏に近いウメオという学園都市に留学していた。スウェーデン北部地方では、夏は白夜には苦しめられるものの、空気が澄んで蒸し暑さなどは無縁で、湖の青、空の青が美しかった。冬は雪に閉ざされ、晴れた日でも1日数時間しか太陽にはお目にかかれないが、クロスカントリースキーをし、疲れるとフィンランド式サウナに入り疲れをとるというような週末を過ごした。娯楽施設などはほとんどなく、テレビもスウェーデン語放送は皆目わからず、ケーブルテレビのCNN放送かBBC Worldで時事ニュースを見る位のもので、時間があれば日本から大量に送った映画のビデオを貪り観た。日本の大学にいるときの様な雑用に追い回されることもなく、心の余裕を取り戻しながら、研究と診療に集中できた夢のようなひととききであったが、そこで巡り会ったウガンダ人のことを記しておきたい。

 

チャールズ・マンブール当時32歳、ウガンダ生まれ。彼が私を頼って私の研究室を訪れたのは、長い白夜が終わりを告げ、新学期が始まろうとしていた8月の終わりのことである。「あなたの仕事を手伝わせてください」。それが彼の第一声であった。「なぜ私の所へ?」「ホルムグレン教授に、単位を取りたいならAndo教授を頼りなさいと言われました」。彼はウメオ大学編入後、大学院に入るために必要な20単位を求めて私のところにやってきたのだった。

 

チャールズの父は比較的豊かな小作農であり教育熱心であった。彼は優秀だったため、最高学府であったウガンダ大学化学科に進むことが出来た。いわばウガンダの数少ないエリートの一人である。英語が堪能であったが、それは自国語の教科書がないため、使う教科書全てが英語で書かれていたための必然であった。この幸運が後に彼の命を救うことになる。

 

ウガンダは人口1400万人、国土は日本より小さいが、この小国に何と20を越える部族がひしめきあい、それぞれの部族ごとで話す言葉が全く違う。「部族ごとでコミュニケーションの取り様がないので、内紛が起こるのは当然ですよ」と彼はいう。

 

アフリカの各地で起こり続けている内紛、政戦は何れもこの部族間のコミュニケーションの欠落が大きく関係していると彼はいう。これに識字率の低さが混乱の拍車をかける。何でもウガンダの識字率は40%で、仮に彼の母が生きているとしても、手紙を読むことも書くこともできず、連絡の取り様がないだろう、と彼は苦笑いした。

 

アフリカの国々はどこも似たり寄ったりらしく、どの部族から為政者がでるかは死活問題で、内紛が起こる毎に、対立する部族の民衆はその巻き添えを食う。チャールズ一族は正にこの内紛の煽りを受け、親兄弟、親族が対立部族によって殆ど殺された。

 

最終的にその時点で生きていたのは、自分とノルウエーで暮らす13歳年上の姉だけだそうだ。「姉はノルウェーで白人と結婚して幸せです」と言っていた。

 

彼は、いずれ自分も殺されると確信し、命がけでウガンダからの脱出を図る。家、土地、家財道具など財産の一切を売って旅費を捻出した。総てコネ社会で、パスポートも大金を出して買わなければならなかった。私は実験のため、彼の血を採血することがあったが、黒人の中でもひときわ黒い皮膚に覆われた血管はどこを走っているのか見当がつかず、失敗したことがある。「痛いか?」と聞くと「痛くなんかないです。刑務所でずいぶん拷問にあいましたから、こんなのは序の口です」と言っていた。

 

亡命に当たっては、まず隣国に出るため、数百キロあるジャングルの中を何日もかけて仲間と歩き走った。途中何人もの仲間が飢えや事故から死んでいったが、幸いチャールズは生き残り、隣国から飛行機に乗り、地上の楽園と思っていたスウェーデンを目指したのであった。しかし彼らにとってスウェーデンはかならずしも地上の楽園ではなかったという。

 

スウェーデンに着くと一応政治亡命という扱いを受けたが、とりあえずウメオの南200km程のところにある難民収容所に押し込められた。そこで執拗な審査が繰り返し行われたらしい。幸い、彼の場合、自分の悲惨な状況、勉強をしたいという情熱を英語でうまく説明できたからよかったが、仲間の多くはスウェーデン語も英語も話せなかったため、動機不十分として本国に送り返された。本国に帰れば確実に死刑が待っているため、一部は当地で自殺を図ったという。チャールズの友達も悲観して、一寸目を離した隙に収容所の屋上から飛び降りたそうだ。彼によれば、スウェーデンでも数々の差別を受けたという。特に田舎は閉鎖的で差別があり、「私達にとって辛いところです」とこぼした。

 

ともかく、彼は研究室では、とてもハッピーのようであった。私が彼のために作った実験計画書、奨学金嘆願書が審査を通過し、半額返せばよいという奨学金をもらえるようになった。午後4時からはレストランに皿洗いのアルバイトに出かけるため、3時半にはオフにしてやり、実験の中途で終わってしまった場合、私が続きの面倒を見ていた。「バイト先では飯をたらふく食べさせてくれるので助かります。シャワーも入れるんです。養うべき者がいませんから、生活に不自由はありません」といって真黒な顔から白い歯を覗かせながら笑った。会った当初、食っていける、と言っていた表現が、最近は余裕が出来た、という表現に変わった。私が彼に与えたテーマは、短期間で実を結んだ。「教授、私は、生きていてよかったですよ。こんなテーマをもらって、こんなに善くしてもらって来年も勉強が出来るんですから」と笑った。彼には、悲しみや寂しさといった表情はなく、いつもひょうひょうとしていた。彼が白人社会のなかで生き抜いていく困難さは想像に難くないが、多くの悲惨なアフリカ人を思うと彼は実に恵まれていることを十分わきまえているようであった。彼は、実験もよく訓練されている上、後片づけがすばらしい。かならず実験台をきれいにごしごしと拭き上げて去っていった。苦難の生活の中から身に付いた習慣であろう。クリスマスイブには、私の母が毛筆で書いた「友情」と記された色紙を「私の研究を支えてくれて、私も君に感謝している」と言って渡したら、「thank you, thank you」と言う言葉が声にならず、真っ黒な顔から大粒の涙をこぼした。彼は、いつの日か日本に来て、私のアミロイドーシス研究を手伝いたいと言ってくれた。

 

この話には実は後日談がある。果たして彼は1998年、特別研究員として熊本に来ることになる。しかし滞在して3か月たった頃、ノルウエーに亡命しオスロで生活していた姉が交通事故死したという。悪いことに夫側の対応が冷たく遺児をチャールズに引き取れといってきた。急遽飛んだオスロからその後何の連絡もない。新興宗教に入信したという話を風の便りに聞いたが、あれから20年、彼の消息は不明である。何とか生きていてくれればよいが。

Copyright© Department of Neurology, Graduate School of Medical Sciences, Kumamoto University.