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「クロエ」-進行性核上性麻痺

  • 2011.11.1

熊本大学大学院生命科学研究部、病態情報解析学分野 安東由喜雄

 

「何度か誘われたことはあるが、いつも断ってきたんだ」、「あなたって年を重ねるにつれて、どんどん素敵になっていったわ。白髪混じりのあなたもとても素敵よ」、「最初は日に三回、それが一回になり、週に一回。そして出産の後、いつの間にか夜の生活がなくなってきたわね」、「それは君のほうから拒んできたことだろう」、「私、鏡で見る自分の姿にどんどん自信を失って行ったの。あなたに見せられないと思ったわ」。聞いていると恥ずかしくなるようなこの会話は、映画「クロエ」(アトム・エゴヤン監督)の50歳代の夫婦の会話の一幕である。監督のアトム・エゴヤンは紛れもなく男であり、これは断っておくが飽くまで男の視点から、願望も込めて書いた脚本であろう。白髪混じり、体のいたるところに老化を感じる自分にとっても、また世の多くの初老を迎えようとしている男性を見るに及んでも、この会話に該当するような「素敵な初老男」が一体どの程度実在するのかは大いに疑問である。もし妻に今の私のことを聞いてみたら、きっと私に気を使ってこの映画のセリフに似た表現を使ってくれるかもしれないが、心底そう思っているとはとても思えない。年を取るということは、どんなに否定しても確実に体も心も、容姿も老化するということに他ならない。

 

この映画では、五十歳代の大学教授をしている夫役をちっともくたびれているようには見えないリーアム・ニーソンが演じているからこの会話に説得力を与えるが、実際は前述のように確実に老化が形となって現れる。それにどんなに愛し合って結婚した夫婦であっても、趣味も嗜好もぴたりと合い、聞きたい音楽、見たい映画・テレビも同じなどということはあり得ない状況の中で、長らくともに生活していると、不協和音が流れ、あきらめが生じるものなのかもしれない。この映画はそうした状況をよく描いている。若いころのようにはいかない妻をしり目に、「違った趣向のものを試してみたい」と思った心の隙に「浮気」が忍び寄るという、実に理解できる心理がこの映画のストーリーの根底に流れ、見るものに共感を与える。

 

街中で婦人科クリニックを営むキャサリン(ジュリアン・ムーア)は、大学教授である夫デビッドと一人息子マイケルとで3人暮らしをしている。彼女は何の不足もない幸せな日々を送っているように見える。しかしこれは共稼ぎの夫婦にありがちなことだが、キャサリンは結婚後、出産、育児、仕事と日々急き立てられるような生活を送り続けており、夫も学生の世話や研究で忙しく、夫婦の会話が必然的になくなり、最近は二人の関係はぎくしゃくしている。とんでもないエアーポケットに嵌ってしまう可能性がある状態にあった。加えてキャサリンは、最近は美貌も体力も衰えていく自分を痛感し、自分に自信が持てなくなってきている。何となく不安を感じる日々の中で、彼女は、夫の気持ちを引き留めておきたいという願いもあったのであろう、夫の誕生日に内緒で友達を集めて盛大なパーティーを開くことを計画する。「帰宅する夫を驚かせたい」。彼女はそう思った。果たして誕生日の日がやってくるが、いつまで待っても帰ってこない夫をしり目に時が流れ、遂にホスト不在のままパーティーは終わりを告げてしまう。なぜ夫は時間内に帰ってこなかったのか。次の日夫の携帯を偶然盗み見てしまったキャサリンは、目に飛び込んできた文章に驚愕する。「昨夜は楽しかったわ」。それは教え子との浮気を疑わせるメールであった。

 

後でわかることだが、五十代も後半に差し掛かった夫が、誕生日に年を取るごとに老化していく自分を実感させられるのを嫌がって、わざと女学生と飲みに出かけ、帰宅を遅らせたのであった。この心境は私にも大変よく解る。毎年教室員が誕生日祝いをしてくれようとするが、私もデビッドのように嬉しくはない。誕生日には、単純に自分は1年分また老化した、と言われているように思えるからだ。「いつまでも危ない男と言われたい」というのは男に共通した願望なのかもしれない。

 

たまらない不安に苛まれたキャサリンは、偶然バーで知り合った、高級クラブで働く、若く美しい娼婦クロエにお金を払いデビッドを誘惑させ、夫が性行動に至るまでの行動を報告するように頼み込む。ところがクロエはしたたかな女であった。この夫婦の軋轢を利用してキャサリンの心を翻弄する行動に出ようとは、その時我を失っていた彼女が想像できるはずもなかった。魔性の女クロエはデビッドに会いもせず、次々に彼との架空の「秘め事」をキャサリンに報告し、彼女の不安を一層掻き立てていく。やがて、クロエの話に困惑したキャサリンは、クロエにデビッドのとった性行動の一部始終をホテルの一室で再現させたりもする。このような状況の中で、夫婦の平和な日常は完全に崩壊し、ついにある夜、夫婦は浮気のことで激しい口論をするまでになる。

 

その後もクロエはキャサリンの家族に執拗にちょっかいを出し、遂にキャサリンの自宅で息子と性交渉を持つところまで行ってしまう。現場を目撃したキャサリンとクロエの間で口論が起こるが、クロエが不可抗力で2階から落下し死亡するところでこの映画は終わる。

 

クロエがなぜこのような行動に出たかはこの映画では十分説明されていない。キャサリンに対する同性愛的な感情なのか、娼婦として生きていかなければならない寂しさや悲しさからくる裕福な家庭に対してのジェラシーなのか、はたまた色情摩と呼ばれるような異常性行動なのか。

 

異常性行動が疾患の進行中に観察されるものに進行性核上性麻痺がある。この病気は、パーキンソン病で認められる、四肢、体幹部の固縮、歩行障害、姿勢反射異常などの症状が首座となることから、パーキンソン症候群を来す疾患の一つとして捉えられている。初期段階では歩行障害や記憶力低下、性格変化、そして眼球運動障害から複視などの症状が出現する。更に失念、性格変化、見当識の低下などを呈するほか、嚥下障害、体幹部の筋肉の固縮や後屈姿勢なども出現する。認知症も合併することから、アルツハイマー病との鑑別が必要になるが、異常性行動、異常な性欲などがこの病気を疑わせるポイントになる。

 

この病気は神経変性疾患に分類され、大脳基底核、小脳、脳幹などに神経変性が起こるが、その変性のメカニズムはほとんどわかっていない。パーキンソン病は、患者数が日本人の100人に一人と多く、遺伝性のパーキンソン病も現在までに12種類以上明らかにされていることから、病因や治療に関する研究の進歩が着実にみられているが、進行性核上性麻痺のほうは、病因論、治療法の開発ともほとんど手がついていない。あまり効果はないが、パーキンソン病治療薬と同じLドーパやドパミン作動性薬が少し効果がある。その他、メチセルジドや抗鬱薬といったものも用いられるが、一般的にはその効果は小さい。

 

この病気は、老人の増加と共に増える認知症に関する知見が増えていく中で、注目されるようになり、一昔前までは、100万人に一人ほどの稀少疾患と考えられていたが、予想をはるかに上回る数の患者がいることが分かってきた。神経内科の疾患ではあるが、認知症や異常性行動を主訴に、精神科を受診するケースも少なくない。夏目雅子の母、小達スエさんがこの病気で75歳の人生を閉じたことが報じられている。夏目雅子も比較的まれな白血病で逝ったが、母親も稀少疾患で逝ったことになる。

 

この映画はどんな人間関係であってもコミュニケーションが不可欠であることを教えてくれる。長年連れ添った夫婦でも、忙しさにかまけて会話を怠り、「愛している」と言わなくなると、映画に描かれたような惨事だって起こってしまうという警鐘を発しているようにも思える。先日、偶然妻が診察医をしている病院を訪れ、勤務医紹介のボードを見ていて驚いた。「安東X子先生:趣味:夫婦の会話」と書いているではないか。それは妻の願望なのかもしれないが、確かに彼女は良くしゃべり笑っている。

Copyright© Department of Neurology, Graduate School of Medical Sciences, Kumamoto University.