最新の投稿

「湯を沸かすほどの熱い愛」-血のつながり-

  • 2017.04.1

戦中、戦後の混乱期を生き抜いてきた今の後期高齢者は、近い将来自分は死ぬかもしれないと本気で実感している者は少ないような気がしてならない。なかにはあわよくば百歳くらいまでは生きてやろうとギラギラした思いをもって生きている老人がいる。がんや進行性の病気に罹患している患者の場合は、命が有限であることを実感しながら「日を折る」ような時間が流れているであろうが、糖尿病や高血圧、高脂血症などの慢性の生活習慣病で通院している患者は、薬を飲んでいる限り大丈夫という幻想の中で生活しているような人々がいる。

そのような高齢者は、「死ぬ準備」がからっきしできていない。住んでいる家から衣服、貴重品に至るまで、年齢を考えると突然「お迎え」が来るということだってあるのにその整理ができていない。本人名義の通帳に大きなお金を入れたまま逝ってしまうと、死後家族がお金を引き出すのにも苦労するし、家、土地の処分も大変だ。苦労して土地の名義変更がやっとできても買い手がつかず税金だけ請求されるということだってある。残された故人の莫大な写真だって困る。捨てるに捨てられないが収納に困るので、結局数枚を残して焼却したという話も聞く。

われわれの体の細胞にはアポトーシスという機能があり、新たな細胞の機能を獲得するために、古いたんぱく、器官が消滅するような仕組みが備わっている。落葉樹は秋に美しい色を残し落ち葉となったのち、春には目に痛いような青葉が生える。それは木々の遺伝子に組み込まれたアポトーシスのような機能である。ヒトは人生の秋を迎えたら、美しい落ち葉になる準備をしなければならない。

双葉(宮沢りえ)は、1年前に亭主(オダギリジョー)が蒸発し、家業の銭湯が人手不足から立ち行かなくなってしまった。仕方がないのでパン屋でパートを務めながら高校生の安澄(杉咲花)を育てているが、彼女は大きな問題を抱えている。学校でいじめにあっていたのだ。顔や制服に絵の具を塗りつけられたり、体育の時間に制服を盗まれたり・・・。次第に登校拒否になろうとする娘に、双葉は声援を送り続ける。「逃げたらおしまいだから」。そんな折、彼女はパン屋で突然倒れる。映画「湯をわかすほどの熱い愛」(中野量太監督)の話だ。

双葉は運ばれた病院で、検査の結果、信じられない病名を告げられる。「膵臓がんのステージIVで、肺、脳、神経に転移している」というではないか。そういえば最近動悸がして、右腕がしびれるようになっていた。唐突に受けた忌まわしいがんの宣告に、夕方、廃墟のようになった銭湯の空の湯船で双葉は泣けるだけ泣いてついに眠ってしまう。時間が流れ、安澄から電話がかかる。「母ちゃん、どこにいるの。私おなかがペコペコ」。「そうだ、自分には支えなければならない家族がいる。悲しんでばかりはいられない。」双葉はそう強く思う。

その日から、彼女はやれることをやって旅立とうと心に決める。探偵を雇って亭主の居場所を突き止め、家に引き戻す。尤も帰ってきた亭主は、浮気相手の小学生の子供、鮎子を連れて来る。一方、安澄にはいじめに立ち向かう強い心を植え付けようと必死で応援する。坂東玉三郎の言葉だが「最近の若い人は、感情をぶつけ合おうとせず、自分の感情を押し隠し、マニュアルでトラブルを解決しようとする。」と警鐘を発している。ぶつかり合いながら和を探していくタイプの人間は昔より圧倒的に少なくなったのかもしれないが、双葉は気持ちを全面に出し、体当たりでトラブルを解決していく。

膵臓がんはその病巣占拠部位により臨床症状が異なる。60%は膵頭部にできるため総胆管が圧迫され黄疸をきたし発見されることがあるが、多くの場合は、腹痛、食思不振、腰背部痛、全身倦怠感、体重減少などの一般的な症状を呈することが多いため、忙しい日常生活の中でついつい病院に行きそびれてしまう。これに加えて膵臓は胃の裏側の後腹膜の中に埋もれるように存在しているので、診断し辛い臓器であることも発見を遅らせる要因である。双葉のように見つかった時点で末期がんである場合も少なくなく、多くのがんに光が見えてきている中で、膵臓がんの治療法の開発は遅れている。転移臓器としては隣接する胃や十二指腸が多いが、リンパ流や血流を介して肝臓、肺、脳、骨などの遠隔臓器に転移する例も少なくない。膵臓がんを引き起こす遺伝子として、K-rasやp53の変異などが確認されており、治療戦略は立てられているが、未だ研究段階となっている。

話が進む過程で双葉は実は小さい頃、母に捨てられて育ったことがわかってくる。一方安澄は、夫が16年前結婚していた別の女性との間の子供であったが、その母親は聾啞者で、育てきれず、安澄が一歳の時蒸発していた。その時巡り合った双葉が結婚し自分の子供としてずっと育ててきたのだった。双葉は、皮肉なことに血の繋がっていない夫、夫の連れ子、安澄の三人と共に暮らし、彼らを自立させるために残りの短い人生を送ることになる。双葉の好きな色は赤であるが、その色は彼女のように情熱的に生きる女性の象徴のように思われるが、血の繋がりを持った人間と一度も暮らしたことのない双葉が、血を意識しながら、本当に心の繋がった家族を持ちたいという強い願いが反映したものであったのかもしれない。

安澄を演じる杉咲花がいい。何度もいじめに会い、遂に一張羅の制服を盗まれ、体操着で登校するしかなかった彼女を、同級生が「体操の時間じゃないのに体操着で来るなんて」と更にいじめた。彼女は心臓の高鳴りを抑えてついにブレイクアウトする。ホームルームでなんと体操着を脱ぎ、下着になって、精一杯感情を抑えた口調で、こう訴えるのだ。「今は体操の時間じゃないから、私体操着を脱ぎます。だから制服返してください」。そして制服が戻り、にこにこして家に帰った安澄は、母にこう自慢する。「ちょっとだけ母ちゃんの遺伝子が流れていたよ」。しかし、その後、自分が双葉の子供ではないと知ることになるが、15年の「親子の営み」の中で、そんなことは超越できるほどこの母子の関係は強く結ばれていた。

人工知能がやがて世の中を席巻し、2030年には今ある職業の約半分がなくなると試算されている中で、銭湯などはその痕跡すらなくなってしまうであろう。しかし疲れ切った体を湯船につかってリフレッシュする。その湯船の中ではとりわけ活発な会話があるわけではないが、家湯のない者同士の連帯感が裸の付き合いの中で生まれる。そんな良さがこの映画には描かれている。

どんな赤ちゃんも泣きながら生まれてくるのは、その後何十年も続く人生の辛さを予見してのことかもしれない。生きることはそもそも辛いのだ。この映画を観る多くのものが感動するのは、がんになり余命数か月しかない辛さに共感からではなく「湯を沸かすほどの」熱い愛を持って育ての親を実践しようと生きる強さに、「どうしてそこまで強く生きられるのか」と感動するからに他ならない。

「遠くの親戚より近くの他人」-「結局、血のつながりなんて当てにならない。そんな不確定のことを当てにせずに、自分の目の前にいる近隣の他人を大事にしていざという時に備えた方がよい」、ということをこの諺は我々に教えてくれている。英語のcompassionという言葉は、passion(感情、情熱)を共に持つという意味で共感と訳す。ヒトにはこの共感という心が遺伝子の間隙に刷り込まれている。この「遺伝子」はとどのつまりは、人間が本質的に持っている他人を踏み台にしても生きようとする「生存の遺伝子」には勝てないのかもしれない。だからともに時間を共有し、心をぶつけ合いながら「仲間」であることを確認しあうことがいかに人間にとって大事な営みなのかをこの映画は教えてくれる。期せずして宮沢りえと杉咲花がアカデミー賞主演女優賞、助演女優賞を独占したのは、血の繋がっていない、二人の女優がいかにcompassionをもってこの役を演じたかの証である。

Copyright© Department of Neurology, Graduate School of Medical Sciences, Kumamoto University.