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「太陽がいっぱい」-青い瞳

  • 2014.05.1

「こんにちは あかちゃん あなたの笑顔 こんちは 赤ちゃん あなたの泣き声
その小さな手 つぶらな瞳 こんにちは赤ちゃん 私がママよ」

 

初めて赤ちゃんを持ったはじけるような喜びと感動をデビューしたての梓みちよが歌い、その年のレコード大賞を見事に手にした。そもそも作詞した永六輔は、「上を向いて歩こう」などの数々のヒット曲を作曲し、コンビを組んだ中村八大に初めて子供が生まれたとき、この歌を作詞したが、「私がママよ」の部分が「俺がオヤジだ」になっていた。梓みちよが歌うことになり急遽歌詞が変更されたが、当時の高度成長経済期の夢と希望をうたったような感じもあり、昭和を代表する一大ヒットとなった。1963年のことだ。

 

当時、年間子供は200万人生まれた。ところが昨今120万人前後しか生まれてこない。何も有効な手立てを打たないでいると今後105万人まで低下し、2050年には日本の総人口は1億人を下回る試算となっている。我々の世代(もしかしたら我々は大丈夫でもその次の世代)は今のままで行くと、老人を支えるだけの年金納税者が足りなくなるのは自明の理である。

 

我々の世代は日本全体の医学生の一学年の総数は6000人前後で、国家試験で多少淘汰され、5000人前後が医師になった。今は一学年9000人を超える。医者が足りないのではない。その分布がおかしいだけなのだということを国は気づくべきである。そうしないと今度は本当に医者受難の時代がやってくる。

 

赤ちゃんの瞳は本当に瞳が綺麗で、どの子も例外なく白眼に当たる眼球結膜は海の色を連想させる青みがかった白色をしており、大人の眼に見られるような充血や濁りは一切なく、虹彩の(黒目)の眼球結膜(白目)に占める比率が大きい。赤ちゃんの目を見ていると、時が止まりこの世の雑事をしばし忘れてしまう。この白目と黒目の比率がわずか1、2 mm違っただけでまったく風貌の受ける印象が異なってくる。白目の部分が多いと冷たい顔の印象になるし、その逆はおっとりした可愛い癒し系の印象となる。日本人は美人より可愛い人を好む傾向にあるため、AKBの「総選挙」などで高得票を上げるアイドルは、なべて黒目の比率が大きい。これを利用して、最近カラーコンタクトなる小道具が若い女性に浸透しているらしい。黒目の大きさをほんの少しだけ大きくし、茶色い瞳を黒色に変えて、眼から印象づけられる可愛さを強調しようしている。海外では、青いカラーコンタクトも汎用されている。先日も驚くほど目元の可愛い女性に会ったが、明らかにカラーコンタクトであった。よく見ると人間の眼は黒目から白目が自然な形で溶け合っているが、カラーコンタクトの場合は、境界がくっきりしているので何となく違和感を覚える。メラニンは紫外線を吸収し、皮膚や網膜を守る役割を担うため、眼を傷害から保護するという点では黒い色調が強い方が圧倒的に有利であるが、我々日本人は映画スターの青い目を見ると異次元のスーパースターと思ってしまうし、何となく青い目は「格好良い」という印象をもってしまうのはハリウッド映画の影響であろうか。

 

虹彩の色も人を見るときの重要なポイントとなる。人間の虹彩の色には、澄み切った海の色のような青い目の色から、茶色、そして黒まで、大きなバリエーションがある。「目の色」の決定に関わる遺伝子の数やそれらの調節機構はまだ完全にはわかっていないが、これによって調節される。眼の色の違いを端的に説明すると、メラニンの発現が少ないと青い目となり、多いと茶、黒色系の色になるが、これは虹彩の中のメラノサイトが作り出すメラニン色素の割合によって決定される。また虹彩には複雑なひだがあり、メラノサイトの分布も一様ではないため、メラニンの発現量や分布のパターンの違いの組み合わせにより個人差が生まれ、瞳の色の多様性の一因となっている。こうしたメラニン発現の調節遺伝子としては、HERC2遺伝子とOCA2遺伝子が注目されている。

 

「太陽がいっぱい」(ルネ・クレマン監督)は、登場人物の瞳のアップが盛んに映し出され、心理描写の重要な役割を担っている。ニーノ・ロータの甘くてほろ苦いテーマ・メロディーと共に、アラン・ドロンの演技が脚光を浴び、彼を世界に送り出した名作であるが、アラン・ドロン、モーリス・ネロの青い瞳と、マリー・ラファレのブラウンの瞳の対比が心に焼き付いて離れない。

 

息子フィリップ(モーリス・ネロ)が、定職にもつかずイタリアで遊びまわっていることに業を煮やした富豪の父親が何の縁なのかトム・リプレィ(アラン・ドロン)という貧しい家庭に育ったアメリカの青年に、フィリップを連れ戻すように依頼をする。フィリップは父親から買ってもらった豪華なヨットを持ち、婚約者のマルジュ(マリー・ラファレ)と地中海でクルージングを楽しんでいたため、トムもヨットに乗り込み、三人の奇妙な生活が始まる。フィリップはわがまま放題に育ったためか気持ちの抑制が利かない。一方貧しく育ったトムはコンプレックスの中で葛藤を抱きながらも初めは金目当てにフィリップの使用人のような生活を受容する。マルジェは若いトムの性欲を掻き立てるような魅力的な女である。フィリップがマルジュといちゃつく様を見せつけられるのにもストレスが溜まっていく。トムは端正なマスク、引き締まった肢体をしているが、出自は隠しようがなく、狭いヨットの中の生活の中でも、食事のマナーも知らず、貧相な姿を晒してしまうところが悲しい。

 

フィリップのトムに対する横暴な振る舞いはどんどんエスカレートし、まるでいじめの様な仕打ちを受ける。ついにヨットの救命ボートに乗せられて、炎天下の地中海に何時間も放り出され、熱射病になり、皮膚も熱傷を受ける羽目になる。こんな横暴なフィリップに愛想をつかせたマルジュは、ついに船を降りるが、フィリップはトムとクルーズを続ける。二人きりになったトムはフィリップに対し、ついにはっきりと殺意を抱くようになっていく。フィリップを地中海の海の底に葬り、できることならフィリップに成り済まし、彼の財産を自分のものにして可愛いマルジュもものにしたい。まさに若気の至りであるが、悪魔のささやきにトムの欲望が反応する。

 

犯行の日がやってくる。ヨットのデッキでトランプをしながら気を許させ、トムは遂にフィリップの胸にナイフを突き刺し地中海に遺体を遺棄する。その後、トムは人が変わったように鋭い目つきの悪人と化し、フィリップに成りすます計画を確実に実行に移す。フィリップが失跡したように見せかけ、自分もアリバイ工作をする。またプロジェクターにフィリップのサインを大きく映し出し、幾晩も練習をし、サインを偽造できるまでになりパスポートも偽造する。そして銀行口座から金を引き出すことにも成功する。そして何と憧れの、フィリップの行方が分からなくなり悲嘆に暮れていたマルジェまで自分のものにするではないか。トムの青い瞳、マルジェのブラウンの瞳のコントラストが地中海の海の青に栄えて悲しい。

 

映画はクライマックスを迎える。トムは完全犯罪を成功させたかに見えた。地中海に面したどこまでも明るい日差しが降りそそぐ浜辺の木陰で、椅子に横たわり、安心したようにくつろぐトム。沖にはもしかしたらフィリップの亡霊かも知れないヨットが一艘走っている。「太陽がいっぱいだ」。トムはつぶやく。それはずっと貧しく育ったトムが、太陽が燦々と輝く世界を手に入れた瞬間であった。しかしその頃すでに警察は事件を察知し、捜査の手が迫っていることを知らないトムは哀れである。

 

アラン・ドロンは中流家庭に生まれたが、四歳で両親が離婚し、親戚の家に預けられたことなどをきっかけに不良少年となり、手に負えない問題児として感化院に入れられた経験を持つ。アラン・ドロンと言えば日本では美男子の代名詞となっているが、この映画では、彼の少年期の蹉跌がうまく融合し、心理描写に厚みを与えている。

Copyright© Department of Neurology, Graduate School of Medical Sciences, Kumamoto University.