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「桃さんのしあわせ」−突発性心房細動

  • 2014.06.1

映画「桃さんのしあわせ」(アン・ホイ監督)は、この映画のプロデューサーであり原作者のロジャー・リーの実話に基づいている。香港の映画プロデューサーであるロジャーの家政婦をしている桃さん(タオという中国語名はどうも日本語の桃に当たるらしい)は十代に両親を亡くし、爾来60年、裕福な梁家に仕えてきた。どういういきさつだか知らないが、今はプロデューサーとして忙しく世界を股にかけて飛び回るロジャーのマンションに住み込みで生活しながら、彼の身の回りの世話をしている。若い頃から住み込みで家政婦をしなければならなかったのはきっと生活のためであったであろうが、祖父の時代から60年も続いたのは梁家の人々が優しく受け入れてきたからに違いない。
桃さんは、ロジャーにとってかけがえのない人だ。実の母は今も元気にしていて、彼との関係もよいが、忙しかったのか幼い頃から桃さんは母親の役割もしてくれていた。桃さんが大事にしまっている大きな段ボール箱の中には、ロジャーの小さい頃からの写真が大事にしまわれている。桃さんは彼が生まれた時から家にいてずっと母親のように彼のことを見守っていたのだ。一緒にいなかったのはロジャーがアメリカ留学をした二十歳からの十年だけだ。二人の間では普段はこれといった会話はなく、桃さんが作ってくれる食事を、新聞を読みながら当たり前のように黙って食べている。「桃さん、この頃は牛胆をだしてくれないよね」、などとメニューに文句をつけたりするが、それはまるで
親子のような会話だ。ロジャーにとって桃さんは空気の様な存在で、そこにいるのが当たり前であったに違いない。そんな桃さんが何の前触れもなく脳卒中で倒れ、左半身の不全麻痺になる。
食事も、洗濯も、出張の準備もすべて桃さんがしてくれた。その桃さんが突然倒れて入院した。家政婦を失ったロジャーはさぞ不自由なことだろうと思いきや慌てて代わりの家政婦を雇うわけでもなく、自分の仕事を淡々とこなしながらも桃さんの幸せを考えるようになっていく。要するに母の替わりはいないのだ。
身寄りのない桃さんの残りの人生をどう看取っていくのか。ロジャーはまず介護病棟に桃さんを委ねる。香港も日本と同様、老人が急激に増え介護病棟が盛んに作られている。でもピンからキリまであり、コネと金の世界である。偶然運よく友達が経営者である病院に桃さんを入れることができた。部屋は相部屋ではなく一番料金の高い個室を用意してもらった。しかし桃さんは病気になったことも、個室に入れられたことも隔離されたようで当初受容できなかったに違いない。それが入所者とのかかわりや、アメリカからやってきたロジャーの母親の励まし、そして何よりロジャーのさりげない優しさを受けてリハビリに励むようになる。なんだかだと理由をつけて病院から桃さんを連れ出すロジャー。桃さんも嬉しかったに違いない。時にはロジャーに腕手を繋いでもらい、少女のような笑顔で、不自由な足を少し引きずりながらもロジャーの後をついていく。遠目には仲の良い親子のようだ。
少し時が流れ努力の甲斐もあり、不自由だった左半身はだいぶ動くようになっていった。ロジャーの桃さんへの思いやりは押しつけでも強要でもない。「気が付いたら桃さんのことを考えている」。そんな自然体の彼の姿がこの映画の中にちりばめられている。一方桃さんはというと、ある時はかたくなに、またある時は少女のように可愛らしく、むくれたり照れたり表情がクルクル変わる。この役を演じたディニー・イップの演技が素晴らしい。彼女はこの映画でヴェネチア国際映画祭、主演女優賞を受賞している。
介護病棟で最期まで生活させるのはやはりかわいそうと考えたロジャーは、桃さんを一旦家族が持っているマンションに引き取るが、そこで再び桃さんは脳卒中を発症しついに昏睡状態になる。医師から延命処置をするかどうかの決断を迫られたロジャーは、もう桃さんの命の蝋燭が消えようとしていることを悟り、積極的な治療を行わず死を迎える道を選択する。
この映画は「桃さんの幸せ」という邦題がついているが、原題は「A simple life」
だ。桃さんの人生はまさに梁家の住み込み家政婦というシンプルライフであったかも知れないが、ロジャーをはじめとする梁家の人々の愛を一杯に受けて幸せだったに違いない。
「遠くの親戚より近くの他人」という言葉があるが、親戚縁者は結構複雑な利害が絡まりあい、時として仲良くは暮らしていない場合もある。そのことを私は移植医療を通して学んだ。肝移植は、わが国では未だにドナー肝が不足しており、移植の大多数は家族がドナーになる部分生体肝移植で行われている。移植を希望する患者を救うため、親・兄弟・親戚の誰かが自分の肝臓の一部を提供することになるが、時としてドナーがなかなか決まらないことがある。「実は兄には肝臓はやりたくない」、「弟からはもらいたくない」といった話は決して稀ではない。夫婦の間でも「夫から借りを作りたくない」といった発言に戸惑うこともある。
だから人間関係が複雑な親戚・縁者より、純粋な関係を築くことができる他人の優しさに救われることがある。ヒトは太古、飢餓から命を守り生きていくために助け合いながら生きてきた。利害が錯綜しない環境では人間は素直に福祉の心をもてる生き物なのだ。
脳梗塞は、アテローム血栓性と塞栓性とに大別される。前者は糖尿病や高脂血症などの生活習慣病により動脈硬化が進み血栓が形成される。後者は心原性の場合が多いが、その中では圧倒的に心房細動により心房内にできた塞栓が脳の血管を詰まらせ血管を閉塞させる。巨人の長嶋茂雄氏は、突発性心房細動により脳梗塞になったと言われている。桃さんの場合、ロジャーにうまいものを食べさせたおこぼれで、高カロリーの食事ばかりを食べて動脈硬化が進み、アテローム血栓性の脳梗塞を起こした可能性もあるが、特発性心房細動による可能性も否定はできない。
心房細動には、発作性のもの、持続性のもの、そして慢性のものの三つのタイプがある。発作性のものは、一週間内に自然と症状がおさまるものとそうでないものがある。持続性のものは、除細動ができない。多くの心房細動の原因は老化が関係していることは歴然としている。またアルコールの多飲、喫煙、過労や過度なストレス、睡眠不足などが誘因となる。生まれた時から何十年も規則正しくリズムを刻み続けたペースメーカーがむしろおかしくならない方が不思議な感じもする。
理研の研究グループは、欧米人の集団から六千人を超える心房細動患者と五万人を超える正常者の遺伝子を用いてヒトゲノム全体に分布する約261万個の一塩基多型(SNP)と心房細動との関連を調べた。解析の結果、欧米人でピックアップされた9個の関連遺伝子のうち4個の遺伝子(PITX2、PRRX1、CAV1、ZFHX3)が日本人の心房細動発症に関わることを見いだした。
前述のように老化や様々な要因によりこれらの遺伝子の発現が誘導され、心房細動が起こるようである。これらの遺伝子がどのようにしてペースメーカー細胞のリズムを乱すかについては今後の研究が待たれる。
この映画を共に見た私の妻の実家にも生まれた時から一緒に暮らしてきた身寄りのない家政婦さんがいた。家業は開業医であり母親もその運営に深くかかわっていたので忙しく、妻にとってもロジャーのように、あるときはこの家政婦さんが母親の役割を果たしたようだ。その家政婦さんが、妻が大学生時代、がんに侵され、自分で身の回りのことができない状態になった。その時、血のつながった娘のように看護したのは妻であった。妻の母はミッション系の高校に通ったが、「愛は寛容にして慈悲あり」を座右の銘とした。忙しくなると私に対しては「慈悲」が薄くなることがある妻だが、この話は誇りに思っている。

Copyright© Department of Neurology, Graduate School of Medical Sciences, Kumamoto University.