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「31年目の夫婦げんか」―男と女の違い
- 2015.06.1
熊本大学大学院生命科学研究部、神経内科学分野 教授 安東由喜雄
昨今、雑誌やテレビの番組で、熟年離婚やセックスレス夫婦の問題を取り上げた特集は枚挙に暇がない。日本の社会は取り上げる問題がそれほどないわけでもないはずだが、ほぼ毎週のように新聞の週刊誌の広告やテレビの番組欄で目にするといっても過言ではない。人生50年であった100年位前の人類は生殖年齢を過ぎると今のように長い熟年期を迎えることもなく、何らかの疾患で死亡していっていた。しかし今は違う。人生90年に迫ろうとする現実の中で、認知症や生活習慣病と向き合うことと同じくらい夫婦間の愛情やセックスに向き合うことが重要になってきている。もっと踏み込んで言うなら、年を取ることと反比例するかのように、しなければならないことが減ってきて、長い夜を一体どうやって過ごし朝を迎えるのかは、夫婦歴の長いカップルにとって大きな問題となっていると言える。熟年を迎えた夫婦にとって、「性」に関しては諦めてしまうのか、あくまで固執するのかといった問題が、映画「31年目の夫婦げんか」(Hope Springs、デビット・フランケル監督)のなかで投げかけられている。
初老の夫婦の話である。映画の冒頭、意を決して、夫のアーノルド(トミー・リー・ジョーンズ)の寝室を“訪ねる”ケイ(メリル・ストリープ)の姿が紹介される。「今夜は一緒に寝たいの、したいのよ」と顔を赤らめながら懇願するケイに対し、「今日は昼にポークを食ったので気分が悪い」とつれなく拒絶するアーノルド。冷え切った夫婦関係が伺われる。結婚して31年が経った。すでに二人の子供たちは成人し家を離れている。毎日決まって妻が作るベーコンエッグを食べ出勤し、夕方決まった時間に帰宅し、さしたる会話もなくゴルフ番組を見て就寝時間を迎える。そんな生活の繰り返しに専業主婦であるケイが飽き飽きしているのは言うまでもない。久しい以前からこの二人は寝室を別にしているようだ。今や夫婦喧嘩のチャンスすらなくなったこの夫婦は危機的な状態であり、妻はそのことに気づき危機感を抱いている。一方、夫はあくまで無頓着である。
「このまま何も変わらず時が過ぎていくのだけなのはいや」。そう思ったケイは模索を始める。彼女は結婚生活に関するカウンセリング本で見つけたバーナード・フェルド医師のホームページにアクセスする。朝食の折、アーノルドに「あなたと集中カウンセリングを受けたいの。一緒に行って欲しい」と懇願するケイに対して、1週間で4000ドルという値段に驚いたアーノルドは「俺はいかないよ」とあっさり拒絶する。しかしへそくりの定期預金を解約してまで申し込んだというケイの思いに、不承不承ながら仕事をキャンセルし最終的には同行することにする。飛行機に乗り二人はグレート・ホープ・スプリングスというこじんまりした海辺の町にたどり着く。
問題意識の乏しいアーノルドにとっては退屈なカウンセリングが始まる。フェルド医師がカウンセリングを受講した理由を聞くと、「私たちもう一度結婚したいんです。心も体も触れ合いがないから」と真顔で答えるケイに対して、「まず長年の夫婦生活でできた傷痕を取り除くところから始めましょう」と上から目線のようにも取れる口を利くフェルド医師に対し、アーノルドの不満は募るばかりであった。
こんなことはばかばかしいと思っているアーノルドとは対照的に、フェルド医師の質問に真摯に向き合うケイを目の前に、彼は次第に否定しつつもこのカウンセリングに向き合わざるを得なくなってくる。さすがにこうしたカウンセラーで金を稼ぐ医師の話術は巧みである。二日目、三日目と二人の間の最近のセックスの実態が浮き彫りにされていく。二人はアーノルドの鼾や睡眠時無呼吸の習癖が引き金となり、久しい以前から寝室を別にするようになっていた。最後にセックスをしたのは五年近く前だという。アーノルドは浮気一つしたことがなくまじめに働く男であるが故に、妻とのセックスに思い描く願望があったが、この状況に諦めきった様子が伺える。「どうせ望んでも妻は答えてくれないだろう」と諦めてしまった節がある。ケイの方は、迫りくる自分の体の老化と相まって、「私の体に興味が薄れていっているのだろう」と決めつけ焦っている。お互い伴侶に愛を感じていながら、趣味や価値観が違い、セックスで求めるものも違うことから、どうしようもない溝ができていることが浮き彫りにされて行く。一週間の滞在の中で、ケイはここまで来ても改善されない夫のぶっきらぼうな態度に憤慨しつつ、最後まであきらめない。それに引きずられるようにケイ付き合おうとするアーノルドではあったが、長年しみついた習癖とあきらめは一長一夕には治らない。
結局最後は、ブチ切れてしまった妻の姿に危機感を持ったアーノルドが、一念発起して一流のレストランを予約し、愛し始めた頃のときめきや、お互いの輝きを語り合い、その後ホテルの一室で愛を確かめ合おうと努力する姿で終わる。結局、お互いの「積年の恨み」をぶつけあった後、行きつくところまで行きついてみないとお互いの愛や有難さがわからないところが辛い。「虹を見たければ雨を我慢しろ」とは言うものの、これは土砂降りの雨だ。
男と女の違いには決定的なものがある。女らしさを支配する遺伝子は不明だが、男らしさを規定する遺伝子は女にはもたないY染色体が関係していることは明らかである(もっともこの染色体に含まれる80ほどの遺伝子は減り続け、1万年もすると消滅すると考えられている)。それは同じ人間という言葉でひとくくりにできない明白な違いである。Y染色体の力で男は女より筋骨が逞しくなり、その結果、女よりは外敵と闘うことに肉体的に適し、伴侶を守り、家族を守る役割を担わされてきた。それは長い進化の過程で受け継がれてきたY染色体をもって生まれた生命体の宿命である。太古、男は野獣や外敵から身を守りながら狩りに出かけ、女は育児もあるため遠出はできず、家の近くの木の実を拾い食事の糧とした。延々と繰り返されてきた人類の営みの中で、男という性と女という性は進化しながら行動パターンが培われ、思考パターンに影響を及ぼしてきたのは言うまでもない。男性は遠くを見て、全体像を見る能力に長けるが、微細な物事を処理する能力に劣り、女性は、近視眼的であるが、こまごまとした物事によく気がつくのはこうした役割分担から来る進化の賜物である。
他人と共に歩んでいくことは同性であっても決して楽しいことばかりではない。それが明らかに遺伝子が違い外観も違う生命体と数十年も価値観を共有しながら生きていくのは至難の業だと言わざるを得ない。当然時として不満が募る。しかしその不満を抱え込んでいては埒が明かない。思い切って爆発させなければ道は開けないことをこの映画は教えてくれる。実際ケイはセラピーを通じて自分自身と向きあい、自分の気持ちを夫に爆発させる。いつでも妻は自分のことを想い、ヒマワリのように常に自分を追いかけてくれるはずだと高をくくっていたアーノルドは、当初は怒りと苛立ちをぶつけるが、最後には妻の不満に慌てて初めて本心を打ち明け、相手の気持ちを優先する努力をすることで一件落着する。しかし年を取って乾いて固くなった頭と心では、わかっていてもなかなか実行に移せないのが現実で、この映画で描かれている夫婦は例外的であり、熟年離婚に落としどころを見つけざるを得ない夫婦も少なくない。
古い話だが、日清戦争から第二次世界大戦まで泥沼の諍いを続けた日本と中国は、戦後30年近く経った1972年9月、やっと時の総理大臣田中角栄と外務省の努力で日中国交回復の調印式が行われることになる。北京であった式典の折、田中角栄総理に対し、周恩来がこう言った。「中国のことわざに喧嘩しないと仲良くなれない、というのがあります」。中国四千年の歴史の中で培われたこの知恵は、夫婦の間でも普遍的な真理である。