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「オデッセイ」- 自律神経失調症

  • 2016.06.1

熊本大学大学院生命科学研究部、神経内科学分野 安東 由喜雄

 

暑いと汗が出る、興奮すると血圧が上がり脈が増える。立つと脳の虚血を防ぐため末梢の血管が締まり心臓に血液が集まり脳に送る。排便・排尿が自動的にできる。性的に興奮すると勃起する。食事をすると自然に唾液が出て、悲しいと涙が出る・・・・。これらの所作は全身に張りめぐらされた交感神経や副交感神経に代表される自律神経が機能することにより自然に遂行される。汎自律神経失調症(pandysautonomia)という比較的まれな疾患では、感冒や胃腸炎などの感染症を契機に何らかの自己抗体が誘導され、それによって自律神経が傷害されるが、前述のような様々な自律神経機能が傷害されるため日常生活に支障をきたす。
人間の進化の歴史は重力との闘いの歴史といっても過言ではない。我々の祖先が四足で野原を駆けめぐっていた頃は、起立負荷はなかったが、二足歩行になると臥位や座立位に体位変換をする場合、心臓が血液を脳に向かって重力に逆らって数十センチほど汲み上げなければならない。余談だが、大人のキリンの場合は、首の長さが遥か1メートルを超えるため、ポンプとしての心臓のポンプ機能はヒトよりさらに強くなければならないことになる。
起立時には心臓の機能に加えて四肢末梢動脈や腎動脈、消化管動脈などを強く収縮させ、心臓へ血液を集め、脳へ運ぶ血液量そのものを増やす必要がある。だからこうした自律神経機能が著しく低下する、前述の汎自律神経失調症や多系統萎縮症、アミロイドニューロパチー、糖尿病といった疾患では起立性低血圧が起こり、時として失神し頭部外傷をおこすこともある。だから逆に、こうした患者さんたちが宇宙空間で暮らすと重力によって引き起こされる症状はむしろ軽くなるはずである。
人間は重力に逆らいながらも、重力をうまく利用しながら生きている。地球環境で生後何十年か生活し、体内に制御システムをしっかり獲得している普通の成人が宇宙に行くと、今度は血液を足側に引き寄せる重力がなくなるため、一様に頭側に血液が集まりやすくなり、顔がむくむことになる。向井飛行士や山崎飛行士などの女性の顔がわかりやすいが、宇宙空間では一様に彼女たちの顔はむくんでいる。宇宙空間で生活した人間が地球に帰還した時のトラブルは、「ゼログラビティー」の時に書いたように、筋力低下が重要だが、こうしたヒトが進化の過程で獲得してきた自律神経機能が宇宙空間で長く生活すると弱まってしまい、帰還後うまく適応できない可能性が高い。長く宇宙に生活する飛行士においては、宇宙滞在中の自律神経調節能変化の問題だけでなく、地球に帰還後においても、自律神経の適応の問題が付きまとうことになる。

 

映画「オデッセイ」(リドリー・スコット監督)は、NASAの宇宙計画の一環として火星探索に行ったものの、突発的な火星の気象変化による事故でたった一人で置き去りにされてしまった一人の宇宙飛行士の、死力を尽くして生きようとする奮闘ぶりと、彼を何とか救いだそうとするNASA関係者の長期にわたる格闘を描いた感動の物語である。
宇宙飛行士のマーク・ワトニー(マット・デイモン)はNASAの火星への有人探査計画「アレス3」の隊員である。火星ではその成り立ちを知るため、地表で様々な砂や岩石などを採取する作業に従事し、順調にことは運んでいた。しかし、あるとき想像を絶する激しい砂嵐が襲ってくる。とるものも取りあえず、隊員は全てを放棄して宇宙船Mars Ascent Vehicle(MAV)へ向かうが、マークは運悪く折れたアンテナが体を直撃し、その反動でMAVのはるか彼方に放り出されてしまう。折りしも強風と視界不良の中、マークの捜索はままならず、女性船長のメリッサはマークが死んだと判断せざるを得なくなる。MAV自体も嵐で危険状態にさらされていたことから、嵐の間隙をぬって火星から出発し、周回軌道を回っていた母船のヘルメス号にドッキングした後、地球への帰路につく。
ところが、この決断は早計であった。なぜならマークは生きていたのだ。意識を失い砂に埋もれてはいたものの、しばらくして覚醒し、ベースキャンプに戻ることができたのだ。彼はMAVが出発してしまったことに驚くが、冷静になり何とか生きる道を模索する。宇宙船に乗って地球から400日以上もかかる火星である。地球から救助隊がすぐに来る見込みはあろうはずはない。残された食料は全員の隊員分をかき集めても一か月足らずしかない。彼は火星での長期生存計画を立てる。運よく植物学者であったことから、人工的に酸素を作る方法を模索し、燃料の水素と反応させて水を作りだし、太陽パネルを使い空気、電気を確保する。さらに火星の土とクルーの残した大便をもとに耕作用の土を用意し、ビニールハウスを作りジャガイモの栽培に成功する。クルーの残した大便を肥料にするためにそれを溶かす過程であまりに臭かったことから、鼻に栓をして農作業を行うシーンは思わず笑ってしまう。
次に行わなければならないのは、自分が生きていることをNASAに知らせることである。彼は逆境にあっても次々に工夫を凝らしていく。1990年代に使っていたマーズ・パスファインダーという通信システムを見つけだし、その通信機能を回復させて地球との通話に遂に成功する。すでに死亡したと思っていたNASAはこの知らせに驚き、まず彼のために追加の食料などを送る目的で急遽輸送用のロケットを短期間で作り上げ、これを打ち上げるが、急造の運搬船には不備があり発射時に空中分解してしまう。
絶望の淵で打つ手を失ったかに思えたNASAであったが、意外にもことのすべてを衛星放送で見ていた中国国家航天局が、地球に近づいたヘルメス号に燃料補給船を送ることを申し出る。マークが生存していることを聞いたヘルメス号のクルーたちは、この計画を受け入れ、地球に帰還せず、地球上の軌道で中国のロケットの燃料や食料を受け取ると再び火星へ戻っていく。
時は流れる。マークは、ヘルメス号が火星の軌道に乗る日に合わせて帰還用の宇宙船に乗り込む。ヘルメス号に接近するためには、出力が足りないことから軽量化するため窓や天井をはずしたが、それに伴う大気の抵抗で、彼の宇宙舟はヘルメス号の軌道から大きく離れることになる。クルーはこの距離を縮めるべく船内の空気を宇宙空間に放出することでエアブレーキをかけ、マークの確保に何とか成功する。彼は九死に一生を得て、地球への帰路につく。後年、彼は宇宙飛行士の訓練生の前で火星での日々を振り返り、救出ミッションに関わった者たちの話をする。
この映画の原題となっている「オデッセイ」とは「イーリアス」とならんで古代ギリシャ時代に詩人ホメロスが書いた壮大な叙事詩のことである。トロイア戦争の後、イタカ島の王である英雄オデュッセウスが各地を放浪した冒険、そしてその息子テレマコスが父を探す旅を歌っている。この映画もまさにマークが、どんな状況の中でも「故郷」である地球への帰還を諦めず格闘を重ねた壮大な「旅」を描いており、まさにオデッセウスやテレマコスが体験した旅と重なるところが大きい。秀逸な題である。
火星は地球の約1/2の大きさで、重力も40%ほどしかなく、二酸化炭素が95%で酸素は極めて微量である。加えて四季はあるが、冬になると地表は非常に低温になり、大気全体の25%が凍るといわれている。一方、春が来ると二酸化炭素の氷は気化して、極地ではこの映画で描かれたような、時速400kmにも達する強い嵐が発生する。人間がとても普通に住める環境ではないことは明らかである。今年、「レベナント」で遂にアカデミー賞主演男優賞を受賞したレオナルド・デカプリオが、その受賞スピーチのなかで、受賞の喜びに加えて、地球の温暖化の危機をせつせつと訴えたが、今、抜本的な対策を考えておかないと人類はやがて地球に住めなくなり、火星の様な人間にとって不適切な環境への移住を本気で考えなければならなくなる。それは長い間かけて獲得した進化の歴史を否定するような撰択だ。

Copyright© Department of Neurology, Graduate School of Medical Sciences, Kumamoto University.