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「第三の男」-抗生物質の誕生

  • 2016.05.1

熊本大学大学院生命科学研究部、神経内科学分野 安東 由喜雄

 

昨年、ノーベル医学生理学賞を授与された大村智さんは、寄生虫感染によって引き起こされるオンコセルカ症やリンパ性フィラリアなどの症状を劇的に抑えることができるイベルメクチンのもととなるエバーメクチンなど、数々の抗生物質を発見してきた。特にイベルメクチンはアフリカや東南アジアなどの発展途上国で今も起こり続けているこうした感染症を抑える特効薬となっており、全世界でこれまで3億人以上の人の命を救ったとされる。医学研究の価値は決して救った患者の多さで優劣が決まるものではないが、大村先生は「人のためになる研究をしたい」と考え、土壌中の細菌を研究し続け、いくつかの新たな抗生物質を世に出し、見事にその思いを結実させた。東京大学で学位を取っているが、そもそもは山梨大学学芸学部(教育学部)の卒業で、定時制高校の先生などを経て、苦労しながらこうした仕事を完成させた。

 

抗生物質(抗菌剤)とは放線菌などの細菌が産生し、他の細菌の増殖や機能を阻害する物質のことをいう。こうした物質を産生する細菌を突き止め培養し、抗菌作用のある物質を抽出・精製した後、感染症を引き起こす細菌の増殖を防ぐことを確認し、完成した抗生物質は、細菌感染症のみならず、インフルエンザなどのウイルス感染症の細菌による二次感染の治療にも使われている。しかしそうした抗生物質の乱用により、耐性菌が産生され続けていることも久しい以前から大きな問題となっている。さらに最近は細菌増殖を抑制する合成化学物質が開発され、一部は汎用されてはいるが、未だに主流は土壌などに存在する細菌を採ってきて、目的物質を生成する旧来の方法である。そもそも土壌中の細菌の生存戦略は多種多様で、一部の菌のように、他の土壌内の微生物や植物と共存共生を図りながら栄養摂取し、生き延びるタイプのものもあれば、放線菌のように抗生物質を分泌して他の細菌を死滅させ、それによってその菌体から栄養摂取し、分裂していくものもある。

 

大村氏は放線菌の様な特質を持つ菌を探すため、ひっきりなしに土壌を採取し、抗生物質を探し続けた。その中でたまたま見つかったイベルメクチンが、世界の多くの患者を救った。遺伝子工学技術が飛躍的に進歩した今日、わざわざ土壌の中から菌を探し当てなくても、抗菌作用を持つ化学物質を合成し大量生産したほうが効率的ではないかと考えるのが一般的かもしれないが、抗生物質は、アミノ酸だけが連なった単純な蛋白ではなく糖鎖などが加わった複雑な構造をしているため、そうした技術を駆使して抗菌剤を作りだすよりは、細菌が進化の過程で獲得したプロダクトをうまく利用するほうがずっと近道である状況は今も昔も変わらない。

 

大村氏は「人のためになることを研究する」、という強い信念をもって研究活動を行ってきたが、そのためには、他人と同じことをやってもダメ、厳しい道のほうを選ぶ、何回失敗しても怖がらない、神様はプリペアードマインドを持っている人(心構えが出来ている人)に贈り物をくれると信じる、といったことを常に心に言い聞かせながら成功にこぎつけた。氏はいう。「私は戦争のない、高度成長期の経済の中で最高の人生を生きてきた。しかし3人の子供に、1000兆円の借金、地方社会の破綻、少子高齢化社会、隣国との緊張、環境破壊を残して死んでいっていいのか」。まったくその通りだ。大村氏は今後有識者として国の重要な会議体に召集されると思うが、是非こうした観点からの発言を期待したいものだ。

 

抗菌剤の人類への使用は、サルバルサンが世界初の合成抗菌剤として梅毒の治療に使われたことに端を発する。1911年のことだ。その後サルファ剤が開発され頻用されるようになるが、抗生物質の本格的な登場は、1942年、ペニシリン系抗生物質、ベンジルペニシリンを待たなければならない。

 

ペニシリンはイギリスの医師、アレキサンダー・フレミングがブドウ球菌の培養中に、カビの胞子が培養皿に落ち、その周囲だけブドウ球菌が溶解しているのに気づいたことに端を発する。彼は即座にアオカビを培養し、その培養液に菌の増殖を抑える物質があることを確認し、抽出物質をアオカビの正式な属名であるペニシリウムにちなんで、ペニシリンと名付けた。世界大恐慌の起こった1929年のことだ。そもそも彼の観察眼は卓越していたようだ。このペニシリンを発見する前には、細菌培養中にくしゃみをしたことをきっかけに、飛び散った唾液の周囲には細菌が生えないことに気づき、唾液中に抗菌作用のあるリゾチームが存在することを突き止めている。ペニシリンの発見から13年の後の1942年、初めてこの抗生物質が人の感染症の治療に応用され人の命を救うことになる。これをきっかけに様々な抗生物質が開発されてきた。日本人にとって最も有難かったエポックメイキングな仕事は1944年に登場したストレプトマイシンの発見かもしれない。この登場により、日本人に多かった結核は不治の病から治療可能な病気に変貌を遂げた。

 

映画「第三の男」(監督:キャロル・リード)は、アメリカ人の作家ホリーが、旧友のハリーの招待を受けて、戦後間もないウィーンを訪れる場面からはじまる。ホテルに着いたホリーは、いきなりハリーの葬儀が行われることを知らされ戸惑いながらも葬儀に参列することになる。やがてホリーは、ハリーの黒い噂を耳にし、ハリーの死の真相を突き止めようと立ち上がる。ホリーは、ハリーの死因となった交通事故の現場に「第三の男」が居合わせたことを知る。謎を解くうちに、ハリーは、ペニシリンを希釈して売る悪徳商人になり下がっていたことを知り愕然とする。この映画は白黒であるが、光の濃淡をうまく使いながら恐怖を駆り立てる描写が素晴らしい。原作のグレアム・グリーンのミステリー仕立ての小説のストーリー展開もスリリングだ。ホリーがハリーと出会う観覧車のシーンや、ハリーが追い詰められ逃走する下水道のシーンは、今でも名場面として語り継がれている。

 

この作品の主役は、ホリーを演じるジョセフ・コットンであるが、実際は「ハリー(第三の男)」を演じたオーソン・ウェルズの存在感の方が圧倒的に大きい。特に再会した二人が観覧車の中で争うシーンでハリーが語る言葉はあまりに有名で迫力がある。「イタリアではボルジア家三十年の圧政の下に、ミケランジェロ、ダヴィンチやルネッサンス文化が生まれた。スイスでは五百年の同胞愛と平和を保って何を生んだか。鳩時計だとさ」。この台詞はそもそも脚本にはなかったが、オーソン・ウェルズが撮影中に創作したものだと言われている。「混沌」こそが芸術などの新たなものを生みだす原動力であるという思いをこめて入れた台詞のようだが、敗戦国オーストリアの首都ウィーンの廃墟ばかりの混沌とした背景の中で、語られたこの言葉には説得力がある。ただこの歴史分析は、わが国にあっては必ずしも正しくはない。元禄時代は「元禄太平記」という本があるくらい、日本史の中でも特筆される平和な時代であったが、その時代に今の日本の文化の元になる元禄文化と呼ばれるオリジナリティーの高い文化が生まれている。この文化は戦争のない平和な17世紀後半から18世紀初頭にかけて、上方を中心に育まれた。特色として庶民的要素が濃く現れているが、担い手として武士階級出身の者も多かった。当時の武士は戦がないので時間があった。特に朱子学、自然科学、古典研究が発達し、尾形光琳、野々村仁清、本阿弥光悦等の日本画や陶芸が発展した。また、音楽では地歌や義太夫節、新浄瑠璃や長唄などもこの時代に生まれている。また井原西鶴や近松門左衛門を輩出したのもこの時代である。

 

結局、芸術を生むためには必ずしも戦争やそれによる秩序の混乱は関係ないということかもしれない。混沌の中で心が研ぎ澄まされ、新しいものを作ろうとする切なる欲求が生まれる状況は理解できるが、だからと言って戦争を希求してはならない。

Copyright© Department of Neurology, Graduate School of Medical Sciences, Kumamoto University.