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「やわらかい手」-子供の難病-

  • 2008.03.1

「現在の臨床症状、そして遺伝子検査の結果から、残念ですがあなたの病気は家族性アミロイドポリニューロパチーという病気です」。一体どれだけの患者さんにこの言葉を投げかけたことだろう。ヒトは親も、持って生まれた体質も、そしてそれを規定する遺伝子も選ぶことができない。体調を崩し病院へ行き、検査の結果わが身が遺伝性疾患に侵されていることを告げられた時、多くの人がまず第一に思うことは、果たしてその病気が最愛のわが子、わが孫に遺伝するかどうかということであろう。

曾野綾子が「誰のために愛するか」に確かに記したように、燃える火の中に取り残されたわが子のために、親は火の中にでも飛び込もうとするし、肝臓の難病を患うわが子には、ごく自然に自分の肝臓を差し出そうとする。それはヒトの進化の過程で、遺伝子にすり込まれてきた遺伝情報の一つで、人はそれを「愛」という言葉で表現する。人の親になるということは、そういうことなのだと思うのは、上記のような遺伝性疾患に長らく深くかかわってきた証しなのかもしれない。

早春、外来診察室に韓国人の患者が私を頼って奥さんとやってきた。インテリジェンスあふれた50代の韓国在住の公務員であった。何でも日本に研修に来ているうちに体調不良となり、京都の病院に入院していたが、私を紹介されてやってきたそうだ。

診察、そして検査の結果、やはり冒頭の言葉を発しなければならなかった私と、涙を流し悲嘆にくれる妻の前で、こんな結果になるとは思いもしなかった彼は、しばらく沈黙した後こうつぶやいた。「こんなことなら知りたくなかった。熊本に来るんじゃなかった。私はいいが、子供にだけは…」。こうした言葉はこのような場面で多くの患者が極自然に発する言葉である。私はこういう時、必ず「申し訳ない」と謝ることにしている。やるせない気持ち、不治の病を引き起こす遺伝子を受け継いでしまった悲しみ、子孫にその忌まわしい遺伝子が伝わるかもしれない不安などが錯綜し、多くの患者はきっと叫びたくなるような絶望感にさいなまれるだろう。誰かが謝ってやらないと、そして遺伝子診断をした私ぐらいが謝ってやらないと気持ちのやり場がないだろう、と思うからである。

ロンドン郊外に暮らす平凡な主婦マギー(マリアンヌ・フェイスフル)は、数年前に夫を失い、一人息子夫婦と二、三部屋離れた集合住宅で暮らしている。メタボリック症候群そのものの体型をして、くたびれた表情をし、年齢以上にしわも目立つ。もうとっくに60歳は超えているであろう。イギリスの、どちらかというと所得があまり高くない暮らしを営んでいるようにみえる。つましい生活をして、一見幸せそうに見えるがこの家族は大きな問題を抱えていた。たった一人の孫のオリーが久しい以前から難病(病名は語られていない)を患っていたが、これまでのところ治療効果は表れていない。家族は残された道はオーストラリアのメルボルンの子供病院に連れて行き、治療を受けるしかないところまで家族は追い詰められていた。

マギーはとにかく家庭の主婦として一人息子の母親としてまじめに生きてきたようだ。亡くなった夫とコツコツと働きお金を貯め、やっと家を購入したが、孫の難病治療のため何のためらいなく手放し、治療費にあてていた。映画「やわらかい手」(irina palm)(サム・ガルパルスキ監督)の話である。

マギーも息子ももうさんざん借金を重ねてきた。なのにまたメルボルンでの治療のため、6,000ポンドを工面しなければ、オリーの命は確実に無くなる。「何か仕事をしてお金を稼がなければ」。マギーは職安などを訪ね歩くが、初老の無資格の主婦を雇ってくれるほど世間は甘くはない。困り果てたマギーは、偶然ロンドンのソーホーで見つけたセックスショップ「セックス・ワールド」の“接客係募集”の張り紙を見つけた。一縷の可能性を求めて、恥を忍んで門をくぐり、面接を受けたマギー。「いったい何をしに来たんだ。何をする店なのか君には分かっているのかね」。オーナーのミキ(ミキ・マノイロヴィッチ)は、明らかに仕事の内容を理解していない彼女に最初は冷淡であったが、偶然握った手の柔らかさに彼女の可能性を直感した。「この手なら使えるかもしれない」。

ミキの見込んだ通り、最初は見よう見真似で手淫をしてやる仕事を始めたが、その手の滑らかさで瞬く間に店でナンバーワンの“接客係”になっていく。’irina palm’と名づけられたその部屋には欲望の塊の男たちが長蛇の列をなした。壁の穴から出てくる男性器はうまい具合に画面には登場させないが、一枚の壁を隔てた彼らは至福の表情を浮かべる。まさか壁の向こうに初老の女性がいるとは、誰も思っていないことなど、この映画はふんだんに性という人間の本能、欲望をコミカルにも描いて見ていて微笑ましい場面を散りばめてくれる。

男は亡くなった夫以外知らない。一人息子を必死で育て、孫のオリーが病気になるや、何のためらいもなく今度は孫のための人生を貫いてきた。洋の東西にかかわらず、こんな母、祖母は沢山いるのだということをこの映画はまず教えてくれる。最初はおずおずと「仕事」を始めた彼女も、予想外の自分の「才能」に目覚め、孫のために黙々と働こうとする。エプロン姿、「手淫」部屋はお金を稼ぐための仕事部屋と割り切り、彼女のお気入りの絵を飾ったりする。彼女にとってこの仕事は売春などといった屈辱的なものでは決してない。彼女はそう割り切ることもできた。彼女の歩き方がだんだんと堂々としてくる。彼女はちょうど主婦としてひた向きに生きてきたように、6,000ポンドという目標に向かってひたむきに働いた。そんな姿は、遊興会で百戦練磨のはずのオーナー、ミキの心も動かし、きっと10歳近く年が離れていそうなマギーをだんだん女として意識するようになっていく。マギーの評判は、やがてソーホーの評判となり、商売敵からより好条件で引き抜かれようとまでしたとき、ミキはあきらめたように言う。「いつ移るんだ」「私、行きたくなんかないわ」。マギーにとってこの仕事は決まったお金を稼ぐための自分にとって精一杯譲歩できる正義のための仕事で、そこで力を貸してくれたミキを裏切ることはできないという彼女の律儀さが良く表れている。そんなマギーにミキの気持ちはさりげなく温かい。「私、あなたの笑顔好きよ。もっと笑って」「俺は君の歩き方が好きだ」。男という性が持つ遺伝子に組み込まれた性の欲望、それをビジネスとするためには、「お金のためだ」と割り切るしかない。そこに集う男も、そこで働く従業員も心はともすればその殺伐としてしまうが、マギーの持つ実直さ、母性から来るさりげない優しさが、ミキのクールでビジネスライクに物事を割り切ってきた冷たい心を溶かしていく。

物語は、マギーが働いていることが息子にばれたことで急展開する。息子は「このような汚い金は要らない!」とまくしたてるが、結局はマギーの孫を思う純粋な気持ち、それは息子である自分自身を思う心でもあることに次第に目覚め、妻ともども彼女への尊敬の念を取り戻していくのであった。一時期は息子夫婦の誘いからメルボルンについていくことを決意したマギーであったが、もう自分の出る幕ではないことを悟った彼女はロンドンに残ることにする。

この映画監督はやさしい男だ。耐えられない仕事をしてどんなにか傷ついたであろうマギーに、最後の最後に大きなプレゼントをしてやったからだ。ミキにロンドンに残ることを報告するため「セックス・ワールド」を訪れたマギーを、なんとミキはやさしく抱きしめるではないか。その後二人はどうなったのか誰も知らない。しかし「お金を貯めていつかは地中海のマヨルカ島で暮らしたい」と言っていたミキは、きっと遠くない将来、マギーを連れて温暖な気候の地中海の島で幸せに余生を暮らしたと思いたい。女は弱し、されど母は強し。でもひょっとしたら、おばあちゃんが本気でけつをまくったら、もう何も失うものはないので、母よりもっと強いのかもしれない。なんとなくにんまりとしながら心が温まってくる映画である。

Copyright© Department of Neurology, Graduate School of Medical Sciences, Kumamoto University.