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「手紙」-ヒトの攻撃性-

  • 2008.02.1

「殺す気なんてまったくなかった。両親を失った後、弟と二人っきりで生きてきた。高校卒業後、進学できなかったため、学歴差別をいやというほど味わってきた。弟だけには満足な生活をさせたい。だから弟を大学に行かせるために金がほしかった」。剛志(玉山鉄二)は事件の後、裁判でそう言ったに違いない。

 

彼は肉体労働に就いて、たった一人の肉親である弟のために人並み以上に働いたが、運悪く腰を痛め、仕事も思うようにできなくなった。弟の進学する大学の入学金さえ払えそうにない状況になった時、まじめな人間ほど自分を追い込み、とんでもない方向に走ってしまう。あろうことか剛志は、金を盗むしか残された道はないと思うようになる。

 

ある日、彼は比較的裕福そうな一人暮らしの老女の家に目をつけ、不在を確認して忍び込む。「誰も帰ってこないでくれ、頼むからこの瞬間だけは見逃してほしい」。彼は神にそう願ったに違いない。ところが非情にも買い物から帰った老女に仏壇からわずかばかりの現金を盗んだ瞬間を目撃される。

 

静かにしていれば、きっと剛志はその金を返して立ち去ったに違いない。ところが老女は当然のことながら、恐怖心から取り乱す。鋏で剛志を撃退しようとするが、もみ合いの中で、突発的に剛志は老女の胸を鋏で刺してしまうことになる。

 

映画「手紙」(生野慈朗監督)の話である。

 

「強盗殺人による無期懲役」。それが剛志に下された司法の裁きであった。千葉の刑務所に収監された兄と弟直貴(山田孝之)の手紙のやり取りが始まる。「優しかった兄が犯罪を犯し、服役しなければならないのは、自分のせいだ」。そう自分に言い聞かせる直貴は、せめてもの償いにと兄からの手紙にしばらくは丁寧に返事を書き続けていた。ところがその気持ちがだんだん揺らいでいくことになる。

 

直貴は高校時代、優秀な成績を修めていた。しかし事件のせいもあり大学進学もあきらめ、結局彼もブルーカラーの仕事に就いた。ところが直貴にとって、マスコミに大きく取り上げられたこの事件の影響はそれだけではなかった。性格も良く、一生懸命働く直貴はどこの職場でも評価されたが、しばらくするとどこからともなく「強盗殺人を犯した服役囚の弟」という風評がたちはじめ、職場にいづらくなり、転職を繰り返さざるを得なかったのだ。転職、引っ越しは数度に及んだ。今度の職場は町工場であったが、直貴にはまだ一つだけ残された夢があった。幼なじみの祐輔(尾上寛之)と漫才コンビを組んでプロになることだった。休み時間にこっそりと二人で漫才の稽古をする直貴の姿に共感し、そんな彼を後押ししたのは、やはり恵まれない環境で育ち、職場の食堂で働く由美子(沢尻エリカ)であった。二人は、だめもとで出た素人漫才のコンテストで優勝した頃からとんとん拍子で有名になっていき、ついにテレビに出るようになる。そもそもはインテリジェンスの高い直貴は、上流社会のお嬢さんと恋にも落ちた。しかし、そうした幸福が長く続くはずはなかった。マスコミが兄の事件をほじくり返しはじめたのだ。

 

耐え切れずに漫才をやめ、自暴自棄になる直貴を、深い絶望の底から救ったのは、やはり由美子だった。「どんなときにも逃げたらあかん!」。彼女の言葉に結婚という形で人生の再スタートを切った直貴であったが、今度は幼い娘がいじめられるようになっていく。「兄貴がいる限り、俺の人生はハズレ。そういうこと…」。直貴はついに兄との決別を決意する。

 

この映画(小説)は「犯罪というものは被害者・家族に対する犯罪のみを意味するものではなく、理由の如何に係らず加害者家族に対する犯罪でもある」とする非情な現代社会の現実を、見るものをうんうんと頷かせがるようなさまざまなエピソードを織り交ぜながら、登場人物の深層心理を巧みに描いた秀作である。原作では、直貴はミュージシャンを目指すことになっているが、映画では漫才師に変えることにより、本当は事件さえなければ直貴の人間性の本質はこうであったろうと見るものに知らせるために一役買っている。

 

人間の攻撃性に関する研究は古くから存在する。染色体異常にはダウン症をはじめ様々なものがあり、それにより様々な疾患・病態を作り出すことが知られているが、Y染色体が一本多いXYYという組み合わせの染色体異常も結構な頻度で存在することが知られている。この染色体異常を呈すると、Y染色体が多いことに起因するのであろうが、一般に高身長で、言語性のIQに比べて行動性のIQが高い傾向が見られるが、その多くは、社会のなかで普通に暮らしている。

 

しかし非行少年を調べるとこの頻度が多いという報告があるのも事実で、Y染色体が一本多いことによる行動性の亢進が事件を引き起こしやすくするのではないかと考えられている。

 

一方、1980年代よりセロトニン代謝と攻撃性の関連が取り上げられ、研究が進んでいる。動物において攻撃行動と脳内伝達物質セロトニンの関係が注目されるようになったのは、十数年前オランダの犯罪者家系の研究報告が大きい。研究の結果、この家系には血中のセロトニンレベルが高かった、と報告されている。その後さまざまな研究が行われ、モノアミンオキシダーゼ遺伝子変異や5HTR1B 遺伝子の異常により結果としてセロトニンの代謝が障害され、結果的に脳内セロトニンレベルが上昇することが、人間の持つ攻撃性と関係しているらしいことが明らかになってきている。対照的に自殺者の脳では、セロトニン分泌低下が起こるとする報告も知られている。

 

しばらくの時間が経過した後、漫才コンビを解消した後も成功してタレント生活を送っている裕輔から、「もう一度だけ漫才一緒にやってみたい。自分は今、刑務所の慰問をしているが、一緒に行ってくれないか」と強烈な誘いを受ける。直貴はたぶんにためらいはあったが、結局、兄が服役している千葉の刑務所に漫才の慰問に訪れることにする。最終的に刑務所に足が向いたのは、志半ばで挫折した夢への心残り、そして断ち切ろうとしても断ち切ることのできない兄に対する思いであった違いない。

 

慰問会場では、漫才はブランクを感じさせない出来栄えで、服役囚を爆笑の海に導いた。そんななか、祈るように両手を合わせ、鼻水を垂らしながら、周りの服役囚の目を気にしながらも激しく泣いている男がいた。兄であった。たった一人の弟のことを思いやった犯罪ではあったが、結局その唯一の肉親を不幸のどん底に陥れてしまっていることへの申し訳なさ、そしてそんな自分に一度は逃げようとして音信不通になった弟が、再度自分と向き合ってくれたことへの有り難さ、申し訳なさなどの複雑な気持ちが錯綜し、剛志は神に祈るような姿で弟の姿を垣間見ていた。

 

最近の凶悪犯に関するマスコミのレポートを読んだりみたりしていると、一部の事件は、必ずしもモラルの低い人間が事件を引き起こしているのではないことがわかる。わが国のますます二極化する社会のなかで、特別な遺伝的なバックグランドももたない人がさまざまな要因による生活苦から、追い詰められてほんの一瞬セロトニン代謝がおかしくなり、殺人を犯したり自殺する社会となってきている。

 

ヴットリオ・デ・シーカ監督の代表作の一つ「自転車泥棒」は、第二次世界大戦後のイタリアを舞台に、戦後の貧困のそのなかで、自転車を盗まれて困り果てた父親が、出来心で自転車を盗み、幼いわが子の前で民衆に袋たたきに会う姿を描いている。今の日本の社会には、あの映画で描かれたような混沌とした世相はないかに思えるが、内情は深刻であることは言うまでもない。

 

裁判員制度があと一年でスタートするが、そもそも私は、裁判人になる自信がカラっきりない。万が一まかり間違って選ばれたとしても、先日の山口県光市の事件や、「手紙」で描かれたような事件だけは裁きたくないものだ。

 

この映画を見たものは皆同じ思いに違いない。

Copyright© Department of Neurology, Graduate School of Medical Sciences, Kumamoto University.