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「愛を乞うひと」-ミトコンドリア性糖尿病

  • 2009.08.1

何の臆面もなく書くが、私は狂おしいくらい母が好きである。最近母が一段と好きになった、というのが正確な表現なのかもしれない。中学、高校と成長していくにつれ、男として「正常な心の発達?」を遂げた私は、母の専業主婦としての世界観の狭さについていけないところもあり、成人に近づくにつれ、母と話をする機会が少なくなっていった。大学生、そして医師となって以降の二十代、三十代は、勉強、仕事が忙しかったせいもあり、年に一回母に会えば良い、といった心理状態で年月が流れた。母の生を何よりも大事なものと思えるようになったのは、私が少し年をとり、一寸した病気を患い、命が有限であることを思い知ったつい最近のことである。

 

小学校二年生のとき弟が生まれるまでは、いわば末っ子のように育った私は、幼い頃からとりわけ母に対する思慕が強かったのか、幼稚園生のときは、朝八時を知らせる時計の鐘の音を聞くと無性に悲しくて「幼稚園には行きたくない」と母にすがって毎日のように泣いてばかりいた。一学期はほとんど毎日母のスカートのすそを握り締めて幼稚園に通ったのを今でも昨日のことように覚えている。私たち一家は、弟が生まれるまでは、兄と私、父母の四人で木造平屋の病院の官舎に布団を並べて寝ていた。当時の私には父、母、私、兄の順番に床を並べて寝るのが一日の終わりの何よりも幸せな行事であった。

 

それは小学校二年生の春、真夜中のことであった。大分県地方に比較的大きな地震が襲った。人生で初めて体験する得体の知れない不穏な出来事に、唯なすすべもなく呆然としていた私に、母は半狂乱になって、私と兄の身体に覆いかぶさり続けた。地震の終わりと共に暗闇の中で垣間見た、放心したように安堵した母の美しい横顔は今でも忘れない。思い出すと笑ってしまうがそのとき母の向こう側で寝ていた父親は一体何をしていたのか、思い出そうとしても思い出せない。そんな母ももう八十二歳になる。

 

今年の早春、母から突然のように長い手紙が来た。そこには昨年父の心臓手術の折、大変世話になったこと、そして何より私の健康への気配り、更には、私が医者になり教授として今日を迎えるまでの努力に対する賞賛の辞があふれていた。私が医者になった日が人生で一番嬉しかった日で、その後の私の医学畑での奮闘ぶりは、まるで夢の中の世界を生きているようだったと記されていた。浅学無才と自分自身で言い続ける母ではあるが、生まれたときから今日まで、ずっと息子のことを心配しながら、私の仕事を理解しようと後ろからついてきてくれていたことを改めて実感し、涙がほほを伝った。

 

母親と父親には遺伝学的に絶対的な違いがある。もちろんXとY染色体の違いは最も重要な違いである。しかし、これに加えて、細胞内の主要なエネルギー産生源であるミトコンドリア遺伝子のすべてが母親由来であるという点も極めて重要なことである。精子にもミトコンドリアはないわけではないが、受精の過程で新たな命には参画できない仕組みになっている。ミトコンドアには核にある遺伝子とはまったく無関係に、独立した37個の遺伝子があるが、これがほとんど母親の卵母細胞由来である。親子の遺伝学的な絆と言う点で、父親は母親よりわが子に対して圧倒的に劣勢である。

 

以前にも書いたが、遺伝性のミトコンドリア病は、母親由来で、母系遺伝の形式を取る。この病気は、ミトコンドリア遺伝子に変異が起こることにより細胞のエネルギー産生がうまくいかず、十分な好気的エネルギー産生が行えなくなることによって様々な重篤な病態が引き起こされる。細胞の中でもエネルギー需要の多い、脳、骨格筋、心筋が異常を起こすことが多く、ミトコンドリア脳筋症、ミトコンドリア心筋症などを引き起こす。このミトコンドリアの遺伝子変異は、後天的にも起こる。特に加齢と共にミトコンドリア遺伝子に傷がつきやすくなることが知られている。こうした変異の場合、細胞内のすべてのミトコンドリアに遺伝子変異があるわけではないため、異常ミトコンドリアの数の程度によっても多彩な病態を示すことが多い。最近特に注目されているのは、ミトコンドリア遺伝子の後天的な変異によって、インスリンを産生する膵臓のβ細胞の機能が低下することによってII型糖尿病が起こることである。実際、一部の報告では糖尿病の1%はミトコンドリアの変異によって起こるとされている。

 

映画「愛を乞うひと」(平山秀幸監督)は、母の、子に対する強烈な虐待がストーリーの重要な部分を占める。豊子(原田美枝子)は戦後の混乱期の生活苦の中で、夜の商売などをしながら身体を張って日銭を稼いで生きてきた。あるときはろくでもない男の助けを借りふしだらな生活を送っていた。娘照恵(成人後原田美枝子の二役)は、幼いころに母豊子の日々の生活のやるなさから、折檻を受けつづけていた。照恵の父(中井貴一)は台湾人で優しい人であったが、父が死んで以降は、一旦施設に預けられた後、母とまた暮らすようになる。父がいなくなってしまった中で、この世で唯一人遺伝子のつながった母に嫌われたくない、母に捨てられたくないという一心で、照恵は母のいじめに堪え続け、尽くそうする。殴られて顔が腫れる、髪をひっぱられて束になって抜ける、階段から突き落とされる、こうしたことは日常茶飯事の出来事であるが、それでも娘は耐え続けた。一見優しそうな継父もアパートの住民も、照恵に同情しても母の暴力からは守ってくれなかった。照恵は何とか母親から愛を乞うために、母の前で無気力に微笑む習慣を身に着けることになる。

 

時は流れ、中学卒業後、これ以上母とは生活できないところまで追い詰められた照恵は、一人で生きていくことを決意してついに母を捨てる。更に何十年かの時が過ぎ、彼女は結婚もし、今や高校生の一人娘がおり、やっと落ち着いた生活を送ることができるようになっていた。しかし、どれだけ時が流れても、彼女には忘れられないトラウマがいくつもあった。雨の中、父が自分を守るために母から自分を引き離した日のこと、父の死、突然紹介された弟のこと、そして物心ついたころから受けてきた、鬼のような母による虐待の日々。わが子への愛し方を知らずに暴力によってしか愛を乞うことができなかった母、それをどうして受け止めたらいいのかわからないまま耐え忍びながら愛を乞い続けた娘の頃の自分。そんな中で、たった一人だけ暖かい包みこむような愛を示してくれた存在が父であり、父の遺骨をみつけることこそが、自分が愛されて育った証のように照恵には思えたに違いない。

 

そんな照恵の気持ちを慮ってか、娘深草の強い勧めで、照恵は台湾人であった父の遺骨を何なんとか探し出そうと思うようになり、母子の台湾への旅が始まる。更に話は展開する。照恵は娘が母豊子の住所を調べたことにより、後に再会を果たすことになる。漁村のはずれで美容室を細々と営む母と娘の対面。一言も会話のない時間が流れる。娘にしみのようにこびりついた心の傷は癒えようがないが、母の子供への取り返しようのない懺悔の心も今となってはいかんともしがたい。照恵は娘の前で「一度でいいから可愛いよって言ってほしかった。」と泣き崩れる。改めて、この親子は過ぎ去ってしまった歳月の重みを感じないわけにいかなかったであろう。

 

身体の傷は癒えても、心の傷は決して消えはしない。しかし照恵の想像を絶する心のトラウマは、乞わずとも愛し愛され、幸福に輝いている一人娘によって少しずつ癒されていく。実際、娘深草の明るく快活な高校生としての姿は、この重苦しい映画には救いである。一般に虐待を受けた子供は大人になるとわが子を虐待する確率が高いといわれるが、照恵がこんな素敵な女の子を育て得たのは、母を徹底して反面教師として己を戒め続けたことに加え、この映画では、登場しなかった照恵の包み込むような夫の愛の力が大きかったからに違いない。

Copyright© Department of Neurology, Graduate School of Medical Sciences, Kumamoto University.