最新の投稿
「おくりびと」-多発性骨髄腫
- 2009.09.1
私は今から四半世紀ほど前、熊本大学医学部卒業後、附属病院第一内科に入局した。当時は、ナンバー内科に入局すると内科学全般を広く浅くトレーニングできたので、学生には比較的人気があり、第一内科への同級生の入局者は20名もいた。私の研修医としての最初の患者は多発性骨髄腫であった。血液系の腫瘍の啓発および治療は、当時は今より未成熟で、手遅れの状態で入院してくる患者も多く、入院イコール死を意味するケースも少なくなかった。50歳代のWさんという女性患者も、入院した時点でかなり進行しており、申し訳程度の化学療法しか行う余地が無い状態で、半年ほどの闘病ののち、帰らぬ人となった。当時、私の所属した内科では、教育的な意味もあり、積極的に剖検のお願いをし、同意してくれる家族も多かった。Wさんは寡黙な患者で、私たちの治療に特に疑問を持つ風もなく、「先生、きつかです」という言葉を残して消え入るように旅立って行った。彼女はきっと許してくれそうな気がしたので、夫に解剖の交渉をしてみたところ、「先生の勉強になるのなら」と同意してくれた。通常、葬儀屋が運んできた棺おけに納棺した形で解剖室を出ることになるが、3時間ほどの詳細な剖検の後、病棟のベテランのナースが、私たち研修医を指導するように剖検で侵襲を受けた身体や顔を丹念に拭き、薄化粧をしてくれるシステムになっていた。「まーWさん、綺麗かー」一人のナースがWさんに語りかけるように囁いた。Wさんが入院して以来、化粧姿を見たことがなかった私ははっとしたが、「いざ旅立ち」という彼女の顔を見て、確かに心からそう思えた。私はこれまで、恐らく100人以上の剖検にかかわってきたと思うし、このようなシーンを繰り返し見てきたはずであるが、何故かあの二人のナースの優しい振るまいとともに、あの日のことをとてもよく覚えている。映画「おくりびと」(滝田洋二監督)を見ていて、このふた昔以上も前のエピソードをしきりに思い出した。多くのベテランナースは、患者さんとのかかわりあいの中で人間性を磨いていくのであろうが、彼女たちはしばしば、臨床活動の刹那刹那で、やさしく、状況をよく理解した対応をしてくれる。きっとあのナースたちも心のこもった「おくりびと」であったのだと心から思う。
ところで多発性骨髄腫は、骨髄で形質細胞が遺伝子変異により腫瘍性の変化を来たし、異常増殖することことによって起こる疾患である。腫瘍性形質細胞の増加により、モノクローナルな異常グロブリン(M蛋白)が産生されるようになる。これにより血中の総蛋白の上昇がおこり、血沈も亢進し、過粘稠症候群を起こす場合もある。形質細胞が骨に浸潤することで高カルシウム血症をおこし骨病変を引き起こす。X線撮影をすると、骨の空洞化した部分がパンチ・アウト像として検出される。異常産生されるグロブリン軽鎖蛋白であるベンズジョーンズ蛋白(BJP)により腎症害もおこる。慢性リンパ性白血病やマントル細胞リンパ腫、多発性骨髄腫(MM)で高頻度に認められるLEU遺伝子領域13q14の微細欠失がFISH法で検出できるようなったが、必ずしも単一な遺伝子異常で起こる疾患ではないことが知られている。
多発性骨髄腫は多くの臓器に障害を引き起こし、前述のような骨の異常、感染症、腎障害、貧血、神経障害などが起こる頻度が高いが、増加したγグロブリンの軽鎖が前駆蛋白質となって、アミロイド蛋白の蓄積によって末梢神経障害を生ずることもある。これまでMP療法(メルファランとプレドニゾロン)やCP療法(シクロホスファミドとプレドニゾロン)などの化学療法が一般的で、一時反応することが多いが、その後、多くの症例で治療中に薬剤耐性が起こり、ほとんどの症例で治癒は困難となり、発症後の生存期間は3~4年である。発症早期の症例では、白血病の治療同様、末梢幹細胞移植が行われており、平均生存期間は4~5年と幾らかの延長を認める。近年、欧米を中心に新規治療の開発が行われ、サリドマイドやプロテアソーム阻害剤ボルテゾミブが新しい治療法として注目されているが、その評価は定まっていない。
大悟は、小さいころからチェロを習っており、将来はチェロ奏者として、世界を渡り歩くのが夢であった。かわいい妻もめとり、奮発して1800万円のチェロも買った。やっと東京のオーケストラに就職できたと思った矢先、経営難から楽団は解散してしまう。ぷー太郎となった大悟は、チェロを手放し、妻の美香を連れて故郷の山形に戻ってくる。映画「おくりびと」の始まりである。就職難の昨今、早速、求人広告で見つけた「旅のお手伝い」というNKエージェント社のキャッチコピーに魅力を感じ、大悟は面接に出ける。社長の佐々木(山崎勉)は、その場で採用を即決するが、仕事内容はなんと遺体を棺に納める納棺師という仕事だった。戸惑いながらも社長に指導を受け、新人納棺師として働き始める大悟だったが、美香には冠婚葬祭関係の仕事に就いたとしか告げられずにいた。
大悟は、子供のころからの友達に「なんというひどい仕事をしているのか」と叱責されたり、ダーティーなイメージの付きまとう仕事の中で受ける屈辱に、悩み続けるが、遺族からの心のこもった謝辞などを通して、死者の旅立ちの手はずを整える仕事のもつ意義や、清廉さに少しずつ誇りが持てるようになっていく。多くの遺族は、葬儀そのものに直面することは初めてであるケスも多いが、映画では、大悟や佐々木の、状況を理解した中で見せる手さばきの見事さ、誠意に納棺師の仕事の意味を理解していくし、そうした遺族とともに成長していく大悟の姿が描かれる。あるとき夫の仕事ぶりを目の当たりにした妻の美香も、いつしか「夫は納棺士です」と言えるようになっていく。暴走族のバイクの後ろに乗って事故死した十代の娘を納棺していた大悟 見ながら、その娘の父親が、事故を起こした暴走族に向かって、「お前たち、まともな生活をしないと、この人(大悟)のように一生こんな仕事をしないといけなくなるぞ」という台詞には思わず苦笑してしまうが、この映画は、日本人は一体いつから「葬」を仕事とする人々を不当に差別するようになってしまったのだろうか、と改めて気付かせてくれる。吉良上野介の屋敷に討ち入りをした赤穂の四十七士が、切腹のため腹掻っ捌くとき、見苦しくないように、消化の良いうどんを食べて吉良亭に向かった。死はそもそも白鳥が飛び立つように潔く、すがすがしくあるべきとする価値観が久しい以前から日本人にはあった。死に伴って行う葬儀は、本来、美しく厳かであるべきで、火葬場の看守(笹野高史)が言うように、旅立ちに向けてくぐる門であるのかもしれない。
この映画は、納棺士という仕事がこの世の中にあることを世に知らしめた貴重な作品であるともいえる。私自身は、この映画を見いて、決して納棺士もなかなかいい仕事だとは思えなかったが、とかく悲壮間が伴う死というものを、コメディータッチで描いている点は特筆される。この映画では、孤独死によるミゼラブルな死亡現場を垣間見せはしたが、描かれた多くケースが、事故死、血管障害など、あっという間に死亡し、自宅の畳の上で安らかな死に顔を見せることができるケスの紹介が多かった。現代の日本では言うまでもなく、がんで死亡する人は総死亡数の三分の一を占める。実際の臨床の場では、がんによる長期の闘病や、消耗性慢性疾患の末、壮絶な死を遂げたケースも多く、生前の面影を止どめない場合も少なくない。しかし、どんな最期にせよ、死は旅立ちであるのなら、きちんと盛装させて送り旅立たせる専門職がいるのかもしれない。