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「ラビング 愛という名前のふたり」
- 2017.07.13
黒人と白人の遺伝子の数、それによって作られるたんぱく質の総数は全く変わらない。若干形質を左右する遺伝子の発現に違いはあるが、ヒトがヒトたる遺伝子に変わりはない。したがって、人種の違いがあっても両者の間で子孫を残すことに何の支障もない。一方、例えば豚と人間ではそもそも染色体、それらに格納されている遺伝子の数が違うので相同組み換えは起こらず、結果、受精卵は誕生しないことになる。
ではなぜ白人と黒人ではあのように皮膚の色が異なり、形質が異なるのか。以前にも書いたが、約16万年前、アフリカで我々の先祖であるホモサピエンスが類人猿から「分化」した。そもそも森で暮らしていた彼らは、サバンナに移動したが、暑さのために体毛を失わなければならなかった。しかしアフリカの大地に降り注ぐ紫外線を防ぐためには、皮膚にメラニン色素をいっぱいに発現させて体を守らなければならず、必然的に皮膚の色は黒くなっていった。6万年前頃から彼らの一部は北に向かって移動しはじめ、2-3万年かけてヨーロッパに定住するようになっていった。しかし、彼の地はアフリカよりはるかに高緯度で紫外線量が少ないため、メラニン細胞が多すぎると逆に紫外線を遮ってしまい、結果としてビタミンD不足が生じるようになった。当初、ヨーロッパに住むホモサピエンスはビタミンD合成不足から来る、くる病に苦しむようになり、皮膚の色の黒い黒人系の人々は淘汰されていったようだ。だから必然的にヨーロッパ人(コーカシアン)は北に行くほど色が白くなっている。私が住んでいたスウェーデン北部の若い女性は、息を飲むほど色の白い女性が多かった。そういえばスウェーデン女優、グレタ・ガルボもイングリッド・バーグマンも当然のように色白である。一方、オーストラリア大陸に渡ったホモサピエンスはアボリジニーと呼ばれているが、紫外線が強いオーストラリアでは、メラニン色素は温存され皮膚の色は黒いままである。オーストラリアでは紫外線が原因で起こる皮膚がんの死亡率はとりわけ白人で高いが、アボリジニーではメラニン細胞が紫外線をブロックしてくれるためその発生率は低頻度のレベルに留まっている。
「ラビング」(ジェフ・コリンズ監督)は、アメリカで今以上に黒人の差別が酷かった1950-60年代に起こった実話に基づいて描かれた白人と黒人夫婦の人種を超えたラブストーリーである。その頃のアメリカは、州によって異なってはいたが、バージニア州では黒人と白人の結婚は固く禁じられていた。当時、混血児が誕生することがキリスト教の精神に反するというのが表向きの理由の一つだったらしい。バージニア州は南部アメリカに位置し、黒人の奴隷制度が横行した州の一つだ。だから黒人の割合も多い。例え皮膚の色が違っていても当然惹かれあう黒人・白人のカップルだってあるはずだ。愛の力は岩をも通し、不可能を可能にする。左官の白人リチャードと黒人のミルドレッドも当たり前のように恋に落ち、妊娠をきっかけに結婚を決意する。二人はこのような結婚が認められているワシントンDCまで何時間も車を走らせ、教会で永遠の愛を誓いあう。しかし、法の目はかい潜れない。地元に戻るとすぐさま警察に摘発され、「例え州外で結婚しても、バージニア州法の下では到底夫婦として生活することは許されない」とされ、留置所に入れられてしまう。白人のリチャードは翌日出所できたが、黒人のミルドレッドは一週間も拘束される。幸いにも白人の辣腕弁護士が力になってくれて、何とか危機は脱出できた。釈放されワシントン州で暮らす道を開いてくれたのだ。この夫婦は、当時の閉塞したアメリカの黒人の置かれた状況を十分に理解し、激しく抵抗したり、泣きわめくようなことはしない。運命を淡々と受け止め、愛を貫くためだけに、そして彼らの間に生まれた愛の結晶である三人の子供を育てるためだけに行動を貫く。武骨で不器用ではあるが妻と子供を守ることに一生懸命なリチャードは、ワシントン州に移住しても黙々と左官の仕事を続け家族を支える。そうした夫の愛をひたすら信じ、いつもまっすぐ彼を見つめながらあわてず騒がず運命を受け入れていくミルドレッドの姿に、観ているものは引き込まれていく。
何年かが経過する。ワシントンでの暮らしが板についてきたころ、都会の、子供のための十分な遊び場もない環境の中で、ミルドレッドは次第に「故郷のびのびとした緑の中で子供たちを育てたい」という思いが募るようになっていく。彼女はその思いとともに異人種間の結婚を禁じる法律の違法性を司法局に宛てた手紙にしたためるが、運よくそれがケネディ司法長官の目に留まることになる。幾つかの偶然を経て、事態は彼らのために解決へと動いていく。ちょうどその頃高まっていた黒人の公民権運動とうまい具合に結び付き、異人種間の結婚も認めようという機運が高まってきていたのである。この夫婦の願いは黒人の公民権獲得というよりは、唯々愛する家族と一緒にいたい、という極めて素朴な、ヒトがもつ遺伝子の間隙に刷り込まれた本能のような願いであったことはいうまでもない。単純な愛の物語だからこそ、見ている者の心の奥底まで届いてくる作品である。 そもそも黒人、白人、そして黄色人種にはそれぞれに異なった潜在能力が培われており、卓越した部分には違いがあることは言うまでもない。これまで様々な研究者が違った観点からそれぞれの特性について分析し、記載してきた。そんな中で大論争を巻き起こしてきたのが、平均すると黒人のIQが白人より若干低いとする研究である。かつてカリフォルニア大学などでは、ハンディキャップをつけないとアジア系の学生が圧倒的多数を占めて、黒人がほとんど入学できなくなるとする見解が発表されたことがあるが、この現象の説明は潜在的なIQの違いというよりは所得や教育環境の違いに求めるべきなのかもしれない。DNAの二重らせん構造を明らかにし、ノーベル賞を受賞したジェームズ・ワトソンも、かつて「黒人の知性は白人と同じではない」という黒人蔑視発言をして、各方面からバッシングを受けた。黒人のIQについては「不都合な真実」(福沢数希著)にも同様のことが紹介されている。
アメリカの社会の中にはアメリカを作ったのはWASP (white, Anglo-Saxon, protestant)であり人種的にも最も優れているとする考えが古くよりあるが、それが大きな間違いであることは言うまでもない。そもそもIQが「知性、知能」の指標として適切なのかという本質的な問題もあるし、IQはペーパーテストであり、より教育システムの進んだ先進国では、反復やトレーニング、マスコミの影響などによって「学習効果」が起こりその値にバイアスがかかる可能性があるのも重要な視点であろう。 黒人の能力はとりわけスポーツや音楽の分野で卓越している。以前から特に短距離走は黒人のスポーツというイメージがあったが、最近はマラソンにおいても国際競技会で久しく白人がメダルを取れなくなってしまっている。今や42.195kmを2時間以内で走る黒人が現れようとしており、白人や黄色人種はこれに全くついていけない状況である。これは単に黒人の骨格や筋肉、末梢神経が他の人種と違うからと説明しようとする向きもあるが、それらの能力は脳の機能と連動していることは言うまでもない。 そもそも長い人類の歴史の中で、人種の違いがヒト社会に複雑な影を落とし始めたのはほんの数百年のことである。仮に黒人のIQが、今の評価方法で低いということが事実であったとしても、知能を図る方法論が他に考え出されると、また別の結果が得られる可能性がある。 明らかに言えることは今後急速にアフリカ時代がやってくるという事実である。その時どのような指標が世界を席巻するのかは、今は誰も知らない。ヒト社会では能力、魅力の価値、評価法は絶えずその時代の中で変化してきた。
どこかの国の指導者は「アメリカ・ファースト」と言い張っているが、その概念はとっくの昔にすでに成り立たない社会になっていることを知らなければならない。