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三年目の納骨

  • 2017.06.26

父は2014年7月、肺炎をこじらせたことをきっかけにして、2年半闘病した後旅立った。レスピレーター管理になった時、意を決して別府から熊本に救急車で運んだ。母は60年以上も暮らした別府を離れるのは嫌だとごねたが、無理やり一緒に熊本に連れてきた。いうまでもなく親を看取ることは仕事をもっている者にとって大変だ。ご多分に漏れずわが家も、妻が同業者であることもあって父の看護がままならなくなり、それまで住んでいた熊本郊外の一軒家をそのままにして、病院の裏にあるマンションに引っ越した。母はしばらく私達と同居した後、近くの高齢者マンションに入居した。  

 

父が逝った後、母は勝手のわからない熊本で一人ぽつんと残された形になったが、何とか一人暮らしはできるので引き続きマンション暮らしを続けた。入るべき墓は別府の郊外にあるが、父をひたすら頼りにして向日葵のように生きてきた母は、墓への納骨をひたすら拒み、彼女のマンションの一室でそのまま遺骨と共に暮らしていた。母は一年半ほどの歳月が流れた頃から少しずつ足腰が弱りはじめ、2年半ほど経った頃、予感はあったが、マンションで突然倒れた。九死に一生を得た後、「撫子」という今の母の姿とはかけ離れた名の老人保健施設に入り一年近くが経過した。今年のゴールデンウイークは5連休に恵まれ、私も久々にまとまった時間ができたので、「そろそろ墓に納骨してやらないとお父さんもかわいそうだろう。成仏させてやらんといかんよ」といってみたところ、観念したのか母はついに同意した。   熊本から別府までは150km以上ある。父を看病していた頃はまだ歩いて病院に通っていた母も、随分と背骨の変形が進み、腰椎の圧迫骨折も加わってほとんど自分で歩けなくなっていた。1日の半分以上ベッドで寝ている母を果たして車で3時間近くかかる別府の墓地へ安全に連れていくことができるのか心配ではあったが、妻の助けを得て、ここを逃してはその時は永遠に来ないと判断して決行することになった。母は「気分が悪い」などとぶつぶつ文句をいいながらもなんとか墓地まで耐えてくれた。  

 

そもそも安東家は大分県、臼杵の稲葉藩の祐筆をしていた関係でそこに墓はあったが、十数年前、高齢になったこともあり、母の独断で別府に移していた。その墓地は一万人以上が眠っている湯布院に近い、豊後富士といわれる由布山を見上げる高台にあった。親切な墓守のおじさんがいて事の次第を取り仕切ってくれ、厳かな気分のうちに父の納骨が終了した。母は「私が死んだら、パパの骨壺のなかに私の骨を少しだけ混ぜて下さい。きっとおじいちゃんが喜ぶから」といっていたが、浮気性だった父は、「もう死んだんだからいい加減一人にしてくれ」と笑っていそうな気がして私は思わず苦笑した。   「人は一体何時から石を拝むようになったのか」といったのは室生犀星だが、その言葉は「私のお墓の前で泣かないで下さい。そこに私はいません」という「千の風に乗って」という歌のモチーフと重なる。私も墓参りや墓掃除などといったセレモニーにはあまり興味はないが、いざ自分が入るかもしれない墓の前に立つと何故か厳かな気持ちになった。   死ぬのも一苦労だ。葬儀、火葬、度重なる法要、納骨。最近は家族葬が多くなったものの、それでも葬儀屋やそれに準ずる葬儀関連業者の導きがなければゴールまでたどり着かない。わが国では死亡した場所から即火葬場へというわけにいかないシステムになっている。私は死んだらできることなら葬式も何もせず、遺骨は別府湾に散布してほしいと妻に話しているが、果たして聞き入れてくれるものやら。   いくつになっても子供は母に褒められたい。別にそれでどうということはないのに母には褒められたいという本能のような思いがある。帰りの車の中で「あなたはずいぶん頑張って、偉くなったわね。どうしてそんなに頑張れるのかねー。私の遺伝かしら」と手前みそのような話をして笑った。  

 

私の母方の祖母は上杉謙信が春日山城を構えた新潟の高田(今の上越市)で生まれた。名前をしんという。生家は浅葱糸を輸出する紡績業を広く営んでいた。何不自由なく育ち、長岡の大きな庄屋の家に嫁ぐことになる。贅の限りを尽くし、人力車を数十台も仕立てた嫁入りだったという。しかし、一人息子を溺愛した姑との折り合いが悪く、二年にも満たない結婚生活の後、離縁されてしまう。生まれたばかりの母を連れて高田に帰ったが、しんさんの父親は見識があった。「女が一人で生きていくためには手に職をつけなければだめだ」と彼女を諭す。当時の女性が手に職をもつといっても撰択肢は限られている。結局彼女は、一念発起して東京に髪結いの資格を取るため上京するが、生まれたばかりの母を高田に残すことになる。しんさんの父親は、彼女を少しでも身軽にしてやろうと母を7人の子供に加えて8人目の養女とした。だから私の母と祖母は戸籍上は長女と8女という姉妹の関係になっている。高田は、「この下に街あり、小便すべからず」という立札が立ったという豪雪地帯で冬は雪に閉ざされる。人はどんなに数奇な人生を送っても、暮らした環境が恵まれていたかどうかで幸せを判断するものだ。母の幼小児期の生活は北国のもつましさはあったが、何不自由なく生活できたからか、母親と離ればなれになった寂しさもなければ、自分の不遇さを思ったことも一度もなかったという。   私は大学入学に当たって浪人もしたし、医師になって病気もしたことがあって随分と母には心配をかけた。兄は文学青年と化し、病院勤務の薬剤師であった父の期待を裏切って私立の文学部に進んだため、私が医者になることに対する両親の期待は大きかった。男ばかりの三人兄弟で、家計はそれほど楽ではなかったと思われるが、「親がしてやるべきことは教育で、そのためにはどんな苦労も厭わない」と譫言のように言い続けた母は勉強となるとどんなサポートもしてくれた。英語だけは幼い頃から勉強しろといわれ、NHKのラジオ英語会話を小学校1年生の頃から無理やり聞かされたし、別府で一番の英語教師がいると聞くと習いに行かされたものだ。孟母三遷の教えを実行した母だった。   私のライフワークであるアミロイドーシスの研究についてはついに理解を示さず、「それは一体誰のために役に立つものなのか、もっと多くの人が苦しんでいる病気を何故研究しないのか」というのが彼女の不満であった。しかし、「私はあなたが熊本大学医学部に受かった時が人生のなかで一番嬉しかった」というところをみると少しばかりは親孝行はしているはずだ。スウェーデンへの留学、検査医学の教授、神経内科の教授、そして医学部長と折々に母には報告してきたが、それがいったい何を意味するのか、半分ぐらいしかわかっていないようにも思える。   かつて別府を襲った震度6の地震の時、私に覆い被さって半狂乱のようになった母、梅酒を飲んで全身に蕁麻疹ができ、一睡もできなかった夜、一晩中幼い私の体をさすり続けた母、その姿は今はもうなく、自分の母親の名前すら出てこないことがある母は今本当はどう思っているのだろうか。「早くパパのところに行きたい」が最近の口癖だが、父を引き取った5年前、家内が内視鏡医をしていたお陰で早期大腸がんがみつかり手術で完治したのは本当によかったのだろうかと思うことさえある。  

 

別府のホテルで少し失禁した母のために家族風呂を貸り切り、私は彼女を洗ってやるために一緒に風呂に入った。やせ細り背骨が歪んで老いさらばえた彼女に涙がこぼれたが、母は子供のように喜んだ。18年前不慮の死を遂げた兄の死後、私は頼りにされてきたが自分自身いつ死んでもおかしくない年齢になると、何とはなしに重圧感がある。今私が母のために想うこと、それは血のつながっていない母を自分のことのように心配し、献身的に介護する妻をねぎらう時間をもちながら、1日でも1時間でも母より長く生きることだということである。

Copyright© Department of Neurology, Graduate School of Medical Sciences, Kumamoto University.