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チェンジリングーDNAによる親子鑑定
- 2010.04.1
泣き叫ぶ、号泣する、すすり泣く、忍び泣く、、、涙を絡めた悲しみの表現には様々なものがあるが、映画「チェンジリング」(クリント・イーストウッド監督)の中で見る、一人息子を突然神隠しにあったシングルマザーのクリスティン(アンジェリーナ・ジョリー)は、いくつものシーンで、悲しみのあまり、その魅惑的な大きな瞳から止めどなく涙がにじむ。見事に世界大恐慌直前のアメリカの日常を再現した映画の中で、彼女の瞳が深い悲しみを訴え続け、見るものにその深刻さが伝わってくる。「ひたひたと迫ってくる悲しみ」と表現したくなる。私はこのような悲しみの表現力を見たことがない。こうした状況の中で人が味わう悲しみは、世界のあらゆる人種、民族を超え普遍的なものである。北朝鮮に、何の断りもなく、突然子供を拉致された親たちもこの映画のクリスティンと全く同じ悲しみを背負う。見ているだけでなんとも息苦しくなってくる映画である。
アンジェリーナ・ジョリーは、実際の母親としての母性からにじみ出る深い悲しみ、静かな強さを映画の中で見事に表現し、惜しくもアカデミー賞は逃したものの、ゴールデングローブ賞主演女優賞を手に入れた。ちなみに題名の「チェンジリング」とは「取り換えられた子供」という意味を持つ。
1928年のこと、クリスティンは、ロサンゼルスの郊外で9歳になる息子ウォルターとつましく暮らしていた。何故かは語られていないが、夫はいない。わが子の成長が彼女の最大の楽しみであり、生きがいであったことであろう。折につけ、ウォルターの身長を測っては居間の柱に傷をつけていた。ある土曜日のことだ。電話交換士の主任を勤めている彼女に、会社から、どうしても人がいないので出勤してくれないか、と電話がかかってくる。シングルマザーとして生きていくためには、上司の申し出につれなくするわけにも行かない、という思いが働く。息子とは映画を見る約束になっていたが、悩んだ末、断り切れずに仕事へと向かう。「もう9歳だ。一人で夕方まで大丈夫」という思いを自分自身に納得させ、ウォルターを一人残して。ところが、夕方彼女が帰宅すると、家で一人で留守番をしているはずの息子の姿はどこにもなかった。
それからのクリスティンは、すべてを投げ打って子探しに奔走する。「あの日、仕事を断って、予定通り映画を見に行っていってやりさえすれば、わが子をこんな辛い状況に追いやることはなかったに違いない」という思いが彼女を走らせ続けた。やる気のないロス警察に何度も足を運び、何としてでも子供を探し出してくれるように奔走する。この時代のロス警察は、本当にこんなにひどかったのかと目を疑いたくなるくらいひどい。挙句の果ては、全く違う子供を探し、彼女にあてがい、「この子は自分の子供ではない」というクリスティンに対し、「貴女は、一人暮らしをしていたこの数ヶ月、その快適さに目覚めたため、育児放棄をしようとしている」とまでいって罵る。果ては、「女性は理性がきかない、感情的な生き物である。客観的な判断が必要」と言い張り、精神病院に強制収用までしてしまう。収容された精神病院の内部も腐敗していたことは言うまでもない。いつの時代も権力の座に就いたものは、一見、市民を守るふりをしながら、自分を守るために窮々として、物事をでっち上げてまでも、つじつま合わせに走るものなのかもしれない。そんな状況でもクリスティンはわが子の生存の希望を持ち奔走し続ける。
事件は、かねてよりロス警察の在り方に不満を持つ良識のあるブリーグレブ神父(ジョン・マルコビッチ)や市民の助けを駆りながら解決へと向かう。クリスティンはやっとのことで精神病院から開放され、犯人も意外な事件の捜査から割り出され、逮捕されることになる。クリスティンは、死刑が確定した犯人に刑務所に会いにまで行くが結局徒労に終わることになる。
この映画の見所のひとつは、明らかにわが子ではない子供を警察当局が、無理やりクリスティンに押し付けようとするところである。押し付けられた子供は明らかに身長が3cm低いと主張しても、「失踪中のストレスで身長が変化することだってあり得る」と交わされてしまう。今なら、DNA鑑定を使ってかなりの精度で親子鑑定ができるが、当時は、よこしまな企みの元では、明らかに違うことを証明する手段がなかった。
最も用いられる親子(血縁)鑑定はマイクロサテライト・マーカーによる識別法である。その中でShort Tandem Repeat (STR)検査法と呼ばれる方法は、簡便な鑑定法である。DNAの中には、特定のDNA配列が一つの単位となりそれが繰り返し並んでいる領域が多く存在しているが、こうした部位をいくつか選び、その反復数を比較測定することで親子を鑑別できるとするものである。その反復数には個体差があるが、真の親子の場合は、この反復数が通常確実に受け継がれるため、同じ反復数を示す。一方、赤の他人の場合は、通常、まったく違う反復数を示すため鑑別ができることになる。こうした反復がある遺伝子の部分は多数存在するため、その箇所を多く設定し検査すれば、その精度は高まることになる。一昔前まで、この方法は膨大な手間隙を要したが、現在はPCR法を利用し、検査機器も進化が続いているため、あまりマンパワーを必要とせず、検査センターレベルで検査可能となってきている。おまけに、PCR法の精度も高まり、DNAが含まれている一本の毛髪や少量の爪、唾液、精液を用いても短時間に検査可能となってきている。こうした鑑定法が更に進化すると、本人の知らないところで勝手に親子鑑定が行われている、といった推理小説まがいの事件が、世の中のどこかで行われるようになりかねない。
DNAによる親子鑑定は、そのほかにも、ミトコンドリア遺伝子が母系遺伝することを利用して、ミトコンドリアDNAの多型領域を調べることで、母子鑑定を行う方法などもある。また、父系血族を調べるには、男性だけにしか継承されないY染色体の遺伝子を調べれば本当の父子かどうかがわかることになる。遺伝性疾患を中心に研究していると、時々稀に、常染色体優性遺伝でも、両親がどう調べても疾患はおろか、遺伝子さえ持っていない場合が稀にある。その場合、患者はその責任遺伝子に突然変異が起こり疾患を抱え込んでしまったことになるが、そうは簡単にことは運ばない場合がある。本当の父親が別に存在する可能性も有るからである。
サマセット・モームは、「作家の手帳」の中で、「あの悪魔をつめこんだパンドラの箱に、神様はあえて「希望」を加えたが、神はさだめし忍び笑いをしていることだろう。なぜなら、あれがなかでも一番残酷な悪魔であることはちゃんとご存知なのだ。「希望」があるから、人は最後までみじめさを耐え忍ぶように生きるものなのだ」と記している。モームが言うように、「希望」は苦しみと裏腹である。イコールと言っても過言ではない。希望があるからこそ、人はその希望に向かって努力し、言いようもない苦渋をなめ続ける。しかし世の中の多くの人が、時として絶望を感じつつも、自殺といった最悪の悲劇まで至らず生きていけるのは、幼小児期から思春期に至る心の成長過程で、様々な人間に出会うことにより、自分にはできることとできないことがあることを悟り、納得しながら、静かにあきらめの境地にたどり着くことができるからである。しかし、クリスティンのような慈愛あふれるシングルマザーにとって、子供は、まさに「希望」そのものであり、突然それ喪った母親は、どう努力してもその「希望」を捨てようがない。この映画を見ていて、何度も息が詰まりそうになるのはそういう気持ちがひたひたと迫ってくるからに違いない。