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「グラン・トリノ」ーフレジャイルX症候群
- 2010.03.1
クリント・イーストウッドが旬である。といっても俳優ではなく映画監督としてのイーストウッドである。今から丁度40年前、テレビの西部劇「ローハイド」で、ロディというカウボーイのヒーローを演じてスターダムにのし上がった彼は、マカロニウエスタンのヒーロを経て、「ダーティー・ハリー」のクールで型破りなハリー・キャラハン警察官を演じ、アクションスターとしての地位を不動のものにした。それがいつの間にか「マディソン郡の橋」で四十をはるかに超えたカントリー・レディー(メリル・ストリープ)とのに恋に落ちる初老のカメラマンに変身し、映画通を驚かせた。最近は、俳優としての渋い演技もさることながら、監督として「ミリオンダラー・ベイビー」、「硫黄島からの手紙」、「チェンジリング」などの秀逸な作品を立て続けに世に送り出し続けている。彼の作品には驚くほど「はずれ」がない。今また「グラン・トリノ」を擁し、生きることの意味論を我々に問いかけ続けている。彼の映画の根底に流れるスタンスは、不幸なもの、差別されているものに光を当てようとするもので、その姿勢は一貫しており、見ている我々の心をつかみ続けている。往年のアクション・スターが、かくも「美しく」老けようとしている姿を私は知らない。
ウォルト・コワルスキーは、アメリカの中西部の田舎町に住む朝鮮戦争に服役したことのある退役軍人である。映画「グラン・トリノ」(クリント・イーストウッド監督)の話である。無骨なこの男は、すでに成人した息子や娘には見放されており、どうも子育てには失敗したようであるが、妻だけには愛された。そんな妻にもとっくに先立たれていて、充ち足りない日々を送っていた。「俺は人には嫌われたが、女房は世界で最高だった」とのろけるところが、この男の暖かい人間性を伝えてくれていて、見ているものが少しずつ、彼を好きになっていくような話の流れになっている。そんな彼の家の隣に中国系の少数民族のひとつ、フン族一家が越してくる。退役後、フォードで自動車の組み立てを40年もしていた彼は、まさにアメリカに誇りを持ち、その繁栄とともに生きてきた。自分が組み立てたという72年製の名車グラン・トリノを宝物のように大事にしていたが、それも彼のプライドであった。だから特にアジア系の人間には偏見があったのかもしれない。隣のスー、タオ姉弟につれない対応をしていた。タオが工具を借りに来ても、スーが話しかけても、最初は歯牙にもかけない対応振りであった。ところがスーが通りでフン族の不良にいたぶられそうになったり、タオがメキシコ系やフン族の不良にいじめられている場面を目の当たりにすると、彼の男気ががぜん首を擡げ、体を張って助けてやったりする。この彼の助太刀は、彼の意に反してフン族の間でヒーローのような存在となり、彼らとも次第に親しくなっていく。しかし、ウォルトにはタオ青年が物足りない。決して不良と群れないことには大いに評価できるが、体も小さく、何事も控え目で女にも奥手、男は余りしないガーデニングを好んだりする。だからウォルトはタオに、男としての自立を教えようとする。長年のポン友である散髪屋に連れて行き、大人の男の会話術を学ばせたり、壊れたものの直し方を教えようとする。ガレージの工具の山を見せて、「俺は男だから何でも直せる。壊れていないドアもな」などとジョークとも本音とも取れないことを言ったりする。しかし、こうしたタオに対するこうした思いやりは、思いもかけない方向へと展開していくことを、ウォルトはこの時点で気付いていなかった。
アメリカの銃社会は、判断のつかない不良たちにしばしば凶悪な犯罪をひき起こさせてきた。ウォルトの仕打ちに怒ったフン族の不良たちはやがて凶暴化し、仲間に加わらないタオ、それを毅然とした態度で守ろうとするウォルトに執拗に暴力行為を仕掛けようとしてくる。当初は不良行為に対して、ウォルトがライフルを向けるだけでことは収まっていたが、次第に不良たちの心が収集のつかない状況へと変化していく。彼らはある夜、タオのうちに銃弾を浴びせたばかりか、偶然外出していたスーを捕まえ、全身に打撲を与えたうえ、強姦までしてしまう。愕然とするウォルト。行き着くところは殺し合いしかない、と悟ったウォルトは、一晩考え抜いた。あくる日彼は思いもかけない行動に出る。散髪をした後、衣服を整え、復讐心に燃えるタオを地下室に閉じ込めた後、きちんと遺書を書き、丸腰で不良たちの家へ向かう。「グラン・トリノはタオへ」。
ウォルトは朝鮮戦争で罪もない市民、無抵抗の少年まで銃撃した自責の念を引きずって生きてきた。戦争体験から、憎しみの連鎖がどんな悲惨な結末をもたらすかも知りつくしていた。誰よりも深く愛した妻に先立たれ、守るもの、そして喪うものなど何もなくなり、おまけに健康も優れない(彼はヘビースモーカーで、しばしば血を吐いていたのは、何らかの重篤な呼吸器障害を起こしていたのであろう)なかで、今度こそ、その罪を購うためにも純粋無垢なタオに生残な最期を見せるわけにはいかなかった。最期はフン族の不良の住むアパートにたった一人で向かい、彼らの銃弾を堂々と全身に受けて果てる。イーストウッドの戦争観も強く伝わってくる映画である。
男を規定するY染色体は、最近発見された特殊なねずみの例を除き、植物を含むXY型の性を決定する全ての生物に存在する。ヒトのXとY遺伝子の数についてはいくつかの報告があり、正確な数字は断定できないが、X染色のもつ遺伝子数が千個前後(一説には1098個)であるのに対して、Y染色体上の遺伝子数は約80個(一説には78個)とY染色体のほうが圧倒的に少ない。しかし、このわずか80あまりの遺伝子の働きで「こうも違うのか」と思うほどの男女の違いが生まれるのだから不思議である。X染色体には性を決定する以外のことに作用する近くの120個の遺伝子があるが、ヒトのY染色体は男性の特徴を左右する遺伝子以外に、重要な働きをする遺伝子はほとんどない。従ってY染色体上の遺伝子が原因となる遺伝性疾患もほとんど知られていない。ひとつだけY染色体関連によると考えられる身体的異常が報告されている。それは、南インド地方で発見された家系であるが、何人かいる兄弟のいずれもが毛深い緑の耳をもつ形質が確認されているということである。
男性の形質が特徴的な臨床症状を呈する疾患で、比較的まれなX連鎖優性遺伝(X染色体が関連する疾患のほとんどは劣性遺伝である)を呈する疾患に脆弱X症候群(Fragile X syndrome)がある。この病気は欧米では比較的保因者の頻度が多いが、わが国ではさほどでもないため、あまり注目されていない疾患である。子供の精神遅滞をはじめ様々な精神神経症状を主症状とする。突き出した大きな耳、あご、大きな額、頭、斜視、くぼんだ胸、扁平足、関節の異常な柔軟性、心疾患などの多彩な身体的特徴を呈するが、特に特徴的な症状として、巨大睾丸が挙げられ、この所見で本症が疑われることがある。
「男」であることは時としてとても難しいことだ。しかしウォルトは、そのことをタオにその無骨さを通して一生懸命教えようとした。その姿は、時々ユーモラスですらあるが、見ているものには共感が持てる。イーストウッドは、この映画を通して、男にとって最も大事なものは筋力でも蛮勇でもなく、男としての心である、ということを訴えているように思える。不良の家に向かおうとするウォルトの表情は、最初、「椿三十郎」の三船敏郎や、「真昼の決闘」のケリー・グラントのように、ぎらぎらしたものではなく、穏やにさえ見える。何とも言えないすがすがしさ、暖かさを感じながら映画館を後にした。