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「未来を生きる君たちへ」―復讐の精神構造
- 2012.01.1
熊本大学大学院生命科学研究部 安東由喜雄
仲の好い、うまくいっている夫婦ですら、また良好に見える親子関係ですら、それぞれの立場で、何某かの不満、不安は生じるものであり、その絆を紡ごうとするいかばかりかの努力がなければ、その良好な関係は続かない。しかし、例えそうした努力を行っていたとしても、予期せぬ出来事が起こり、すべてが水泡に帰することもある。こうした時、必ず首をもたげてくるのは、人間というよりは、動物に普遍的に備わる攻撃性であり、攻撃を受けたことに対する復讐心である。この憎しみの連鎖が時として大変な惨事を引き起こすことがある。
デンマークの海沿いの小さな町に住むエリアス少年はアフリカの紛争地域で、負傷した人々の治療に奔走する外科医の父アントンと、地元で地域医療に貢献する内科医マリアンを母に持っている。映画「未来を生きる君たちへ」(スサンネ・ビア監督)の話である。恐らく他のアフリカの紛争と同じように、部族間の抗争が根底にあるのであろうが、アントンが勤務するアフリカの紛争地域では、特に「ビッグマン」と呼ばれる、妊婦の腹を切り裂く悪党集団がいて、彼は体も心も傷ついた人々の対応に追われていた。エリアスには小さな弟がいて、普段は母と三人で暮らしている。ある日、久しぶりに父親がアフリカからこの町に帰ってくる。エリアスは父が大好きだ。困ったことがあるとインターネットを利用してアフリカの父と相談したりしているが、さすがに久々に会えるのはうれしくて仕方がない。エリアスは出会い頭に父の胸の中に飛び込んでいく。
帰郷したアントンは四人で家族団らん、食卓を囲むべきだが、何故か家には帰らず、別荘に向かう。どうもこの夫婦の間には渡ることのできない深い溝があるようである。ある日エリアスの小学校にイギリスからクリスチャンという陰のある少年が転校してくる。彼は母を最近がんで失い、父のクラウスと共にこの町に住む祖母を頼ってやってきたのだった。母の病気は必ず治るとずっと父から聞かされ、その言葉を頼りに生きていた彼は、大好きだった母の喪失感から未だに抜け出せないでいる。やり場のない悲しみからくる攻撃性は嘘を言った父に向かっているようだった。エリアスの隣に席を得たクリスチャンは、放課後不良グループからエリアスが、歯の矯正をしていることもあり、ネズミ顔をしているといじめられ、彼もとばっちりを蒙ることになる。心のすさんでいるクリスチャンは次の日、いじめグループの番長、ソラスをナイフをちらつかせながら傷を負わせ、警察沙汰にまで発展する事件を起こす。丁度帰国していたアントンは妻マリアンと共に学校に呼び出され、クリスチャンと共にエリアスが事件を起こした背景には、夫婦仲が悪いことも関係しているのではないかと教師からなじられ憤慨する。
エリアスはどこか厳しいところがある母より父のほうがはるかに好きで、今回の帰国中も、クリスチャンと共に父に付きまとっていた。ある日、広場で遊んでいたエリアスの弟がブランコの取り合いで、ある子供と諍いとなったが、その父親である車の修理工場を経営しているラースがアントンに食って掛かり、暴力を振るう。アントンは平和主義者でその場を毅然とした態度をとり無抵抗でやり過ごしたが、エリアスやクリスチャンたちは、子供特有の「正義感」も手伝って、その態度が物足りず不満であった。アフリカで憎しみの連鎖から起こる抗争の悲惨さを目の当たりにしてきたアントンは、暴力による報復の無意味さを説くが、子供たちは収まらない。そこでアントンは無抵抗主義の尊さを示すため、今度はラースの工場を訪れ、彼を諭そうとするが、そこでも暴力を振われることになる。報復をしない大人の見識を持った態度を見せるが、子供たちにとって、その光景はさらにストレスが増すばかりであった。
クリスチャンはある日、祖父が残した作業場で、火薬を見つけ、いとも簡単にインターネットで爆弾の作り方をマスターしてしまう。心の満たされないクリスチャンは、エリアスをそそのかし、許せない存在のラースの車を爆破しようと提案する。エリアスは唐突な計画に最初は尻込みするが、それを見たクリスチャンの冷たい態度に追い詰められて行き、ついに決行の朝を迎える。路上に駐車していたラースの車の爆破の瞬間が迫る。とその時、ジョギングをしていた母子が車に近づいてくるではないか。咄嗟に、エリアスが「危ない!近づくんじゃない!」と車の前に飛び出す。車と共に爆風をもろに受けたエリアスは数日間、生死をさまようことになる。
さらに物語は進み、九死に一生を得たエリアスを軸に、わからなかった部分が明らかにされ、ぎくしゃくしていた人間関係が修復されていく。アントンが浮気をずっと許せないでいたマリアンは、今でも本当は彼を愛しており、極限の状態でアントンに心を開き、癒しを求めようとする。「復讐」の顛末の無意味さを目の当たりにしたクリスチャンは自殺を試みようとするがそれ乗り越え、エリアスが入院している病院に改めて赦しを乞いに出かける。
「正義」とはもろいものである。もろいからこそ暴力や攻撃性と簡単に結びつき、その正当化のために「正義」という言葉が使われる。暴力によって起こった事件の顛末はしばしば悲惨であるが、そこに赦しというものがなければ、人の社会は成り立たないことをこの映画は教えてくれる。
ヒトには本能として攻撃性があり、進化の歴史の中で遺伝情報としてDNAの間隙に刷り込まれている。太古、猛獣との戦いは道具を用いることを覚えたヒトにとっては、比較的たやすかったに違いない。しかし一方で、ヒトはそれらよりはるかに高等な知能を持つ「他人」と如何に戦うかが最大の問題であったことは想像に難くない。最も恐ろしい敵は他の動物ではなく、どの動物より狡猾な心を持ったヒトそのものであった。いかにして敵であるヒトを欺き、争いに勝ち食物を得るか、いかにして自己複製のためのパートナーを自分のものにするかなど、自己の生存、複製の最大の鍵がここにあった。従って人間同士の競争に勝つことが快感と感じる「遺伝子」がヒトには組み込まれている。
ところでアントンは、アフリカでは危険を顧みず、平和主義を貫き、敵味方の区別なく診療をしている。住民にとっては悪魔のような、妊婦の腹を切り裂く「ビッグマン」の首領ですら、足を怪我したことにより起こった感染症から瀕死の重傷を負っていると見るや、住民の反対を押し切り治療したが、いざ首領が住民を侮蔑するような一言を履いた瞬間、我を失い、住民に彼を引渡し、首領が袋たたきにされる様子を黙認した。平和主義者の見識というものも、ヒトが生来持っている「攻撃遺伝子」の前ではもろいものだということに見ているものはハッとするであろう。
アフリカの紛争地帯で今現在リアルタイムで起きている殺し合いの惨劇とデンマークの片田舎で起きている小さな社会の中でのいさかいは、程度の差、質の違いはあるかもしれないが、ヒトというものが作る社会のなかで本質は同じで、どこの社会でも必発である。だから最後には「赦す」という境地に至らなければヒトの社会は最終的には成り立たない。赦す心を持つためには、時間と手間、労力、教養が必要となるが、万が一例えそれが手遅れであったとしても、最後には赦す心を示して欲しいという祈りのような気持ちを映画を通してスサンネ・ビア監督は訴えかけている。
この映画では、最後に、親を殺され、貧困にあえいでいるかもしれないアフリカの子供たちが、満面の笑顔でアントンの車を追いかけるシーンで終わる。どんな環境、状況でも子供たちは純粋無垢である。その心を守ろうとする気持ちもまた人間の遺伝子の間隙に刷り込まれている。子供たちとその遺伝子の発現こそ進化の過程で今後最優先して獲得していかねばならないメカニズムである。