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「西の魔女が死んだ」-老人性アミロイドーシス
- 2008.08.1
アロイス・アルツハイマーがアルツハイマー病を発見してから百年が経つ。アルツハイマー病は脳にアミロイドの塊である老人斑が作られ、この消しゴムのようなアミロイドのかたまりに、自分の記憶や人格、想い出が消されて行き、認知症が引き起こされる疾患である。厚労省の統計によると、あと20年もすると65歳以上の老人の10%が認知症をきたし、そのうち半分はアルツハイマー病であると推定されている。こうした老人を誰がどのように介護していくのか、医療費はどこからどのように捻出するのか、わが国の将来を左右する大きな問題である。ところでアルツハイマーがおかした大きな間違いは、この病気がヒトの病気として大変珍しいものとして論文に報告したことである。人生高々40-50歳の当時のドイツにあって、彼はこの病気が後年大変重要な病気のひとつになることを予見できなかった。我が国国民の平均寿命の伸びが止まらない。つい最近まで日本人の平均寿命は70歳代であったと思ったら、すでに80歳代に突入している。90歳代になるのは時間の問題である。アルツハイマー病がそうであったように高齢化社会では今まで想像できなかった疾患が大きな問題になるであろう。
そうした疾患の一つに老人性アミロイドーシスがある。この病気が初めて報告されたのは1980年代で、スウェーデンの研究グループが、80歳以上の患者の解検組織をアト・ランダムに調べると数十パーセントの症例で心臓、肺などの組織にアミロイドが沈着していることを明らかにした。具体的な疾患との関連はさほど大きな問題として取り上げられなかったが、この病気は高齢化が進むにつれ徐々に問題化し、高齢者の原因不明の心不全や呼吸不全をきたす症例では、この病気を疑う必要があると考えられるようになってきている。原因はこの場合、遺伝変異は関係なく、正常のトランスサイレチンという甲状腺ホルモンやビタミンAを運ぶたんぱく質が、高齢になると心臓や肺でなぜかアミロイドとなり臓器障害をおこすことにある。いわゆる「老化」がトランスサイレチン蛋白質に何らかの影響を与え、アミロイドに変化させ、病気を引き起こすと考えられている。さらに10-20年経過すると、老人性アミロイドーシスは今よりもはるかに多くの患者が発見され、大きな問題となっている可能性が高い。「歌はつれ人につれ」、「歌は時代を映し出す鏡」とはよく言うが、病気も時代を映す鏡である。
まいは母親と共におばあちゃんの住む日本アルプスのふもとの村に向かっていたが、車の中で「魔女が倒れた」と確信する。運転席の母の顔をあわてて覗き込んだところ、母は泣いていた。そういえば以前おばあちゃんは、「死ぬときにはまいにメッセージを送りますよ」と優しく言ってくれていた。まいも母どうも物事の予知能力がありそうだ。2年前、中学生になったばかりのまいは、周りの環境に順応できず、登校拒否になり、「魔女」と呼ばれるおばあちゃんの元で1ヶ月あまり暮らし、心の再生を果たしていた。まいはおばあちゃんが大好きで「おばあちゃん大好き」というと、必ず間髪を入れず「I know」という言葉が返ってきていたが、まいはその受け答えも大好きだった。映画「西の魔女が死んだ」(長崎俊一監督・脚本)の話である。おばあちゃんはイギリス人(サチ・パーカー:シャーリー・マクレーンの娘である。母も父のスティーブ・パーカーも親日家で、幼い頃、父とともに日本で暮らし、学習院に通っている。本名をサチコ・パーカーという)。おばあちゃんは、何十年も前に英語教師として来日、鉱物採集が趣味の理科の教師だった若かりし頃のおじいちゃんと恋に落ち、結婚、ハーフの母が生まれた。母も学生時代はなんとなく環境に順応できなかったようだが、大学まで進学し、今は仕事を持ち、主婦と仕事をなんとか掛け持ちしながらこなしていた。おばあちゃんには自分の出自に関する、周りの者が知らない飛び切りの秘密があるらしい。イギリスの魔女の血を受け継いでいるというではないか。どうも予知能力などの超能力があるらしい。このおばあちゃんは、学校に行くのが苦痛になってしまったまいを優しく受け入れてくれた。まいは、友達と群れたり、興味のない話に合図地を打ったりして、自分を衆に迎合させることの無意味さを息苦しさとともに実感し、登校拒否という袋小路に入り込んでしまっていたのだった。まいは感じ始めていた。もしかしたら、自分は本当に魔女の子孫なのかもしれない。だから自分も母も人と「少し違う」のかもしれない、とおばあちゃんとの暮しのなかで感じていた。しかし、おばあちゃんが魔女修行に課した日課は、規則正しい生活の中で自然とシンクロした単純な日常的な営みを積み重ねることであった。早寝早起き、炊事、洗濯、掃除、庭の草花、鶏の世話、畑仕事。最初は何となく馴染めなかったそうした行為も、毎日こなしていくうちに、そうした作業の一つ一つにおばあちゃんの知恵と経験が生かされていることに驚きと感動を感じないわけにはいかなかった。そうした作業は、あたかも、まもなく生を終えようとする血のつながった祖母から、自分の世界を新たに切り拓こうとする子孫へと、祖先から脈々と受け継がれた「魔女」の智恵袋の伝達式の様でもあった。五感をフルに稼働させてこそ、生きる力は呼び戻される。その五感は、自然との共生の中から培われる、ということをまいはだんだん肌で感じていった。「悪魔を防ぐためにも、魔女になるためにも、いちばん大切なのは、意志の力、つまり自分で決める力。自分で決めたことをやり遂げる力です。その力が強くなれば、悪魔もそう簡単にはとりつきませんよ。」おばあちゃんはこう話す。まいは、おばあちゃんが課した魔女修行とは、人生の達人であり、賢者を指すことなのだということを知ったが、それは学校生活の対人関係の中で、自分を貫き通すには、力を抜いて自分の意思を大事にしながら、自然体で生きることが一番であるということも学び始めていた。
まいは鶏小屋が狼か狐に襲われ、無残な有様になっていた様子を目の当たりにした夜、眠れなくなっておばあちゃんの布団にもぐりこんでこう問いかける。「おばあちゃん、人は死んだら何にもなくなるって、パパは言ったけれど、まいはそんなの嫌だ」「私の考えではそうではありません。ヒトは死んだら体から魂が脱出して魂は永遠になくならないのです」「じゃー舞は体はいらない」「体があるからいろんなところに行けるし、楽しい体験もできる。体があるからいろいろな人に会えたり、経験ができ魂が成長できるのです」「舞の魂は成長しなくていい」「草花が太陽を目指してどんどん伸びていくように、魂もまた成長するのが自然の摂理なのです」。
おばあちゃんは何の病気で旅立ったのかこの映画では語られていない。まいとの会話のなかで、おばあちゃんはもうすでにこのとき自分の死期が近いことを予知していたことが語られる。彼女は本当の洞察力の鋭い魔女だったのであろう。いかに医学が発達し、ヒトの寿命が延びても、アルツハイマー病や老人性アミロイドーシスの存在が物語っているように、ヒトが今まで思っても見なかった病気にかかることは必然である。どんどん長寿になっていくにつれ、克服されるべき病気の質が変わっていくであろうことは想像に難くない。この映画は、心と体の「自然」との共生の大切さに加えて、再生のためには死は必然であり、それは逃げずに自然の摂理として受け入れなければならないことも教えてくれる。