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「サラの鍵」―テイサックス病
- 2012.05.1
ジュリアは中年のジャーナリストである。夫と中学生ほどの娘がいるが、ひょんなことから1942年、パリで実際に起きたユダヤ人一斉検挙について調べはじめる。映画「サラの鍵」(ジル・パケ・プレネール監督)の話である。映画は、この事件に巻き込まれた当時少女だったサラに焦点を当て、彼女の半生を明らかにしていく。
1942年7月16日、フランス人なら悔恨の情と共に誰でも思い出す日の朝。10歳になるサラは、弟のミッシェルとベッドの中で戯れていた。けたたましく鳴り響くドアを叩く音。何人かのフランス人憲兵隊(ドイツ人ではないないのだ)がサラ一家を連行するという。その言葉を耳にした彼女はとっさにミッシェルを押入れに閉じ込め鍵をかけた。サラは両親と共に、後ろ髪をひかれるような思いを胸にアパートから屋内収容所に連行される。サラはとっさに判断したのだ。年端もいかない弟だけは、一緒に連行させるわけにはいかない。弟だけは怖い憲兵から守りたい。「大人しくするのよ。静かにしていれば必ずすぐに迎えに来るからね」「うん、わかった」。サラは弟と確かにそう約束したのだ。決して果たされない約束になろうとは思いもせずに。
映画では、何千人ものユダヤ人が実際に2日間収容された屋内競技場の光景が忠実に再現される。とにかく7月のパリは暑い。エアコンもない屋内にユダヤ人の老若男女が立錐の余地もない状態で収容された。水も食事も十分に与えられず、トイレも満足にないため、収容所内では「垂れ流し」の状態となり、2日目には汚物のひどい臭気がしたという。両親もアパートに残してきた息子のことが気がかりでならないのは言うまでもないが、何より弟を押入れに閉じ込め、鍵をかけたサラが苦しみもがき叫ぶ。見知らぬ人に「自分のことだけ考えるのよ」と言われるが、諦めきれないサラは憲兵にまでも弟を連れに行きたいと訴えるが、その願いは空しかった。
両親とサラは、屋内競技場に一旦収容された後、ボーヌ・ラ・ロランド収容所に送られる。まず父親が引き離され、そして遂に母との別れの瞬間がやってくる。母は絶望的な状況の中で、激しく涙を流しながら絶叫する。「愛してるのよ。とっても愛しているのよ」。サラの額に何度も何度も口付けをする母。それが最期の思い出となる。その後収容所での子供たちとの生活が始まることになるが、サラはアパートの押入れに鍵をかけて残してきた大切な弟の安否が心配でならない。「何としてもここから抜け出して、弟を暗闇から救い出してやらなければ」。
ある日サラは、親しくなった収容所の監視員の助けを借りて運よく脱走に成功する。叢を駆け抜け、林を越え、川を渡ってたどり着いた先はある村の初老のデュフォール夫婦の家であった。収容所の脱走者であることを察知した夫婦は、最初は受け入れを拒否するが、心あるこの夫婦は結局彼女の面倒を見ることにする。やがて終戦がやってくる。彼女は夫婦の子供の一人として成人していく。順風であるかに見えた彼女の人生であったが、収容所で受けた虐待や、弟を押入れに閉じ込めた時に使った鍵、ずっと握りしめ続けた鍵が役に立たずに終わったことに対する彼女の心の傷は癒えることはなかった。、その後単身、アメリカに渡り一度結婚はするが、ある日一人息子を残して、トラックに突っ込み自殺してしまう。
この話は少し複雑である。ジュリアが第二次世界大戦中のフランスのユダヤ人虐待を調べていくうちにサラという少女にたどり着くまではわかるが、そのサラ一家が住んでいたアパートにその後移り住んだのがジュリアの夫の家族だったという下りは、何となく不自然な話に思えてくる。
知るということは時として残酷な事実を突きつけることに繋がる。時として古傷を穿り出し、人を傷つけることになる。ジュリアがアメリカにまで渡りサラの軌跡を調べていたとき、夫のベルトランはジュリアをこう諭す。「真実を知って誰がより幸せになるというんだい。今より世界がよくなると言うのかね」。歴史を暴くということは、往々にして史実に関与した人間を傷つけることになる。しかし、温故知新という言葉があるように、過去を総括をしなければその出来事の位置づけがはっきりとしないし、人は真の新たな一歩を踏みだすことが出来ないこともまた事実である。
そもそもフランス人のユダヤ人迫害はナチスドイツによって始められたものではないらしい。ロシア革命後、東欧や中欧が混乱し、大量のユダヤ人がフランスに流入した。折しも世界恐慌が起こり経済状態も悪化し、雇用環境が悪くなったことからそのしわ寄せがユダヤ人に向けられたようだ。ユダヤ人は当時職業差別を受けたことに加え、遂にまたナチスドイツの力により迫害を受けることになる。
昔は人の交流も少なく、国際結婚などもほとんどなかったことから、特定の異常遺伝子が特定の民族、地域に濃縮されるかのように色濃く受け継がれていくということが起こってきた。理由はよく解らないが幸い日本人の場合、他の民族と比べて突出して多い遺伝性疾患は余り知られていない。一方、ユダヤ系東ヨーロッパ人はテイサックス病などの脂質代謝異常症を高率に発症することがよく知られている。米国においてもテイザックス病の遺伝子保因者の頻度は200人に一人と多いが、特に東欧系ユダヤ人では何と27人に一人がこの異常遺伝子を持っている。なぜ、東欧系ユダヤ人にこれほど高いテイサックス病の遺伝子保因者がいるのかはわかっていない。
この病気は、ガングリオシドと呼ばれる脂質の成分が特に脳内の神経細胞に蓄積されて起こる常染色体劣性遺伝を呈する神経難病である。通常小児期に発症することが多い。脂質成分の蓄積により精神発達遅延や身体能力の著しい低下が起こる。中枢神経機能の多くが障害され、視力障害や聴力障害などの感覚器の障害もみられる。これに加えて筋力低下も起こり、歩行困難になる。この病気は、ヘキソサミニダーゼAと呼ばれる酵素が遺伝的に合成されないことにより起こるため、小児から障害が認められることが多いが、不思議なことに、成人型と呼ばれる成人発症のタイプもある。20歳から30歳代初めに発症するこの稀な病型は、歩行失調と進行性の筋力低下を特徴とする。この病気の診断は時として有能な眼科医によって行われることがある。網膜に「さくらんぼ様紅斑」をみつけるとこの病気がわかるくらい特徴的な眼底所見を呈する。
ナチスドイツによるユダヤ人の大量虐殺は枚挙に暇がないほど映画にも小説にも取り上げられてきたが、その多くが史実に基づいているため迫力を持って描かれている。何百万人ものユダヤ人が殺されていく中で、多くの非ユダヤ人はそれをどう受け止め生きていたのであろうか。多くの関係者は少なくともこの残虐な行為を止めることが出来なかったことだけは事実である。翻って現代、ヒットラが世界を席巻した頃のような集団ヒステリー的状況はないのであろうか。
話は小さくなるが、小学生である娘のクラスで一寸したいじめがあった。当初、大したことはないと思っていたが、娘が毎日のように状況を憂慮する発言をし始めた頃から、私たち夫婦も心配になってきた。そしていじめられている少年が「死にたい」と言っている、と聞いたとき、いてもたっていられなくなり、おせっかいとは思もったが、校長先生に会いに行くことにした。大変立派な先生で、その日を境にして娘のクラスに毎日足を運び、事実関係を明らかにし、ことの収拾に全力を尽くし、いじめのないクラスに戻した。
ヒトという生物に備わっている攻撃性、残忍性は、教育の力でしか抑え込むことは不可能である。娘のクラスは放っておくと、さらに状況がエスカレートし、もしかすると娘まで加害者になる危険性もあるのではないかと私ども夫婦は考えた。ことの顛末から3か月、暗い顔をしていた娘も、「学校に行くのが楽しい」、と言って毎日笑顔で学校に通っている。今回は出過ぎておいて良かった、としみじみ思っている。