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「終の信託」「裁きは終わりぬ」-安楽死
- 2013.12.1
映画監督と主演女優が恋に落ち結婚し、その後も自分の映画のヒロインとして使うというパターンは枚挙に暇がない。進藤兼人と音羽信子、篠田正浩と岩下志麻、伊丹十三と宮本信子(この場合、内縁の妻)、そして周防正行と草刈民代などが挙がる。その美貌のみならず卓越した演技力で作品の厚みを増し優れた作品も少なくない。しかし一方で、どうも妻である女優の美しさや可愛らしさに魅せられ、スクリーンを通して誇りたくて仕方ないかのように思える組み合わせもある。周防正行と草刈民代がそうだ。最近の映画「終の信託」は正直なところそうした部分がどうも鼻についていけない。周防正行監督といえば、仕事が命のような会社員(役所広司)と斜陽化したダンス教室のプリマドンナ(草刈民代)の心の触れ合い、淡い恋を描いた映画「Shall weダンス?」が有名である。アメリカでリメークされまでになった評判の映画だが、この映画の草刈民代は、ダンサーそのものを演じたため、それほど演技の粗雑さが目立たなかった。しかし「終の信託」では、自分の患者の意思に沿って安楽死を選択する女医の、安楽死を提供するに至る心情の変化、起訴され、検察官に取り調べられるときの感情を表現する役者としては少し荷が重かったように思う。
主人公の女性は30歳代の未婚の呼吸器内科医である。話の中で、先輩の医師と恋に落ち、病院の中でのラブシーンが披露されるが、草刈民代のバレエで鍛えた40歳になっても贅肉ひとつない裸体がスクリーンいっぱいに繰り広げられる。「どうだ、俺の妻はこんなに綺麗だろう」といったメッセージが伝わってくる。ストーリーは喘息重責発作を繰り返す50歳代の患者に「喘息重責に陥り、回復不能となったら延命治療はしないで欲しい」と頼まれた主治医が安楽死を選択するように追い込まれていく過程の心の葛藤が描かれている。普段は冷静沈着な女医がなぜ患者を安楽死に導いたか、それが果たして罪なのか、というのがこの映画の醍醐味であるが、映画の中で主人公の女医が最終決断をするに至る深層心理の表現が物足りなかった。また主治医と患者の会話も喘息は慢性疾患なのだから、もっと寄り添うような会話になるのではないかと思うが、違和感があった。
古い映画だが安楽死の問題を描いた秀逸な映画に、フランス映画「裁きは終わりぬ」(アンドレ・カイヤット監督)がある。主人公のエルザは年の頃40歳前後のクールだが聡明な医師である。優秀な成績で医学部を卒業後、製薬会社に入社し、所長に認められ、頭角を現していく。美人であることもあってか、所長に見初められ、恋に落ち、同棲関係を続ける。エルザは両親とともにエストニアからの亡命者であったこともあり、所長の両親からは疎ましい存在であった。付き合っているうちに所長がかなり進行した肺がんを患っていることがわかる。日に日に肺機能は悪くなり、呼吸苦を訴えるようになっていく。痛みもあったのかモルヒネも逐次投与するようになっていく。遂に社長はモルヒネの過剰投与による安楽死を望み始める。所長の苦しむ姿を見るに見かねたエルザは、ある日意を決して遂に安楽死を実行したが、その医療行為は所長の両親の訴えにより法の下に裁かれることになる。
陪審員性を取るフランスも市民からアットランダムに様々な階層の7人の市民が選ばれ、裁判官と共に裁くシステムになっている。所長がエルザにかなりの額の遺産を相続する遺言をしていたこと、所長の死後、エルザが所長に就いたことなども市民の関心を惹き、大衆紙もこれを書き立て、裁判の行方は市民の関心の的となっていった。当然のことながら、安楽死の妥当性を主張するエルザであったが、市民裁判官の中では議論が真二つに分かれる。様々な参考人が証言に立つが、人付き合いのあまり得意でないエルザに、参考人のエルザ評は芳しくない。また敬虔なカトリックが多いフランス人の中で、外国人の移民であるうえ、無宗教であることも市民の印象を悪くしていく。エルザと同じく研究所に勤務していた社長の妹から、陪審員の心象をさらに悪くする決定的なことが明らかにされる。この妹は実の兄を失ったことに加えて、エルザとこの所長の次の椅子を争っていたことも証言に影響が出た可能性がある。エルザが、所長が瀕死の状態の中で、もう一人愛人がいて付き合っていたというのだ。妹は、安楽死が実行される前の日にエルザと愛人が車の中で抱擁し合っていたのを目撃したというではないか。この証言は、裁判長によってエルザに確認されることになるが、エルザはこれを否定しなかった。心が引き裂かれるような心境の中で、彼に惹かれていった状況を淡々と説明していく。ついに最後はその愛人まで法廷に引っ張り出され、エルザとの関係が赤裸々に語られていく。愛人はエルザの無罪を必死で訴えるが、其のことがエルザを利するようには働かないのは誰の目にも明らかであった。
エルザは絶えず感情を抑え、暴かれていく私生活や、所長、愛人との関係についてうろたえることもなく淡々と受け答えしていく。参考人として登場した家政婦から、飼い犬に冷たく対応したとまで証言されるのだからやりきれない。フランスも異邦人には決して寛大な国ではない。これに加えて遺産相続、第二の愛人の存在など、安楽死自体の妥当性ではなくそれ以外のゴシップのような部分が脚光を浴び裁かれていった裁判であることは否定できない。しかし所詮裁判とはそういうものだとカイヤット監督は言いたかったのかもしれない。エルザは当時共産圏であり、冷戦時代、ソビエト連邦の一部であったエストニアの出身ということから、弾圧の中で感情を表に出さず、静かに生きてきた生き様が染み付いているのかもしれない。果たして結審となる。僅か1票の差ではあったが、結局エルザは5年の有罪判決を受け、無表情で収監されていく。人が人を裁くということは難しいが、「裁きは終わりぬ」という題からもわかるように、一つ一つの裁判でとにかく黒か白かの判決が下され、裁きは終わる。真実は神のみぞ知る、ということを淡々と語るこの映画は心に迫る。
無論、自分自身で自分の命を選択する、というのは違法ではない。わが国の自殺者は年間3万人を超えているが、その選択は自殺者自身のものであり、逮捕されたものは一人もいないことは言うまでもない。一方、安楽死の問題は難しい。不治の病に苦しみもだえる患者が自分で死を選べない環境下で自殺幇助を訴え続けた場合、平然とそれを受け流すことのできる医師はそれほど多くないであろう。これまで何度か医師が不当に提供したとされる安楽死に関する裁判が行われているが、医師側が勝訴したものはないという事実がこの問題の複雑さを物語っている。多くの医師が「患者の利」を考え、安楽死に踏み切ったはずなのに、法はそれを認めるができない現実がある。平成7年横浜地裁は、安楽死が許される4つの条件を以下のように明示している。1.患者が耐え難い肉体的苦痛に苦しんでいること、2.患者の死が避けられずその末期が迫っていること、3.患者の肉体的苦痛を除去・緩和するために方法を尽くし他に手段がないこと、4.生命の短縮を承諾する患者の意思表示が明示されていること。どんなに患者が懇願した安楽死であっても、この四条件のうち一つでも欠けると法的な安楽死は成り立たない。
わが国では明治時代、短編小説「高瀬舟」で軍医総監森林太郎(鴎外)によって安楽死の問題は始めて提起されている。江戸時代の話である病気で働けなくなってしまった弟の自殺を幇助し、罪に問われた喜助が、晴れ晴れとした顔をして護送船に乗っている姿が描かれている。鴎外は本質的に安楽死に対しては肯定論者であったと思われる。もう百年以上も前にこの問題が提起されたことに改めて驚きを覚えるが、その後世界でもわが国で盛んに其の是非が議論されてきたにもかかわらず、今となってもまだ議論は尽きない。