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「妻への家路」-解離性健忘

  • 2015.12.1

熊本大学大学院生命科学研究部、神経内科学分野 安東由喜雄

 

馮婉玉(フォン・ワンイー) (コン・リー)とバレエ団に所属している娘の丹丹(タンタン)は共産党の事務局に呼び出され、文化大革命のせいで強制労働を強いられている夫の陸焉識(イェンシー)が、西寧市の収容所から逃亡したと知らされる。彼は実に1957年から20年に渡って囚われの身となっていた。「お前のところに連絡はないんだろうな。もし何か情報があったらすぐ通報するように。」と党員からきつく言われる。タンタンにとって父は三歳の時に連行されその後会っていないので顔もよく覚えていない。彼女は躊躇することなく即座に「はい」と答えるが、ワンイーにとってはそうはいかない。映画「妻への旅路」(英語題:Coming Home)(チャン・イーモー監督)の始まりである。

 

果たしてその夫がその日の深夜、党員の張り込みをかいくぐって母娘の住むアパートにやってくる。最愛の妻と大きくなった娘に一目会いたいと願ってのことであるのは想像に難くない。何度もそっとドアをノックするその音にワンイーはドアの向こうにいるのが夫に違いないと確信するが、涙を流しながらドアを開けない。それは党員が見張っている中で万が一家にいれたことが明るみに出ると、統制の強い中国にあってたちどころに愛娘に迷惑がかかることを熟知しているからだ。運悪くその時間に丁度タンタンが帰宅し階段の踊り場で、父娘は再会を果たす。全てを悟ったイェンシーは、「明日の朝8時半、駅で待っていると母さんに伝えてくれ」と言い残して素早くその場を去る。タンタンはバレエの主演の第一候補だったが、父が逃亡したという理由で外されショックを受けていたこともあり、それをすぐに共産党員に密告してしまう。ワンイーは逃走を支援するための最低限の身の回りの品と、恐らく夫が好きなのであろう。パンを沢山作って翌朝駅に向かうが、二人が再開する寸前で党員に取り押さえられてしまう。何一つ会話もできず、何も渡せず泣きじゃくるワンイーの悲しみは計り知れない。

 

三年の後、毛沢東の死と共に文化大革命は終焉を告げ、イェンシーは晴れて解放され、愛する母娘の住む町の駅に向かう。ところが迎えに来ていたのは娘だけであった。彼女はすでに大好きだったバレエをやめてしまい、紡績工場で工員として働いていた。そしてたどり着いた思い出のアパート。しかしそこに妻の姿はなかった。部屋はいたるところに注意書きの張り紙があり、まるで認知症患者が住んでいるようであった。しばらくして買物から帰ったワンイーに満面の笑みで接するイェンシー。しかし最愛の妻は自分を認識できない。何と彼女は自分のことを方さんというではないか。忘れているのは自分のことだけではなく、物忘れも多少あるようだ。娘や近所の人の話では、一年ほど前から心の障害をおこしているという。

 

イェンシーは近くに住み、妻の記憶を回復させるため、様々な努力を始める。心に痛みのある娘も父に一生懸命協力しようとする。ある時、起死回生の手立てを思いつく。イェンシーが「その月の五日朝に駅に着く」という手紙をワンイーに送り、駅に迎えに来た妻に自分が列車から下りたふりをしてそこで再開するというシナリオである。果たして計画は実行されたが、目の前に近づいてくるイェンシーはワンイーにとって見も知らない他人としか見えない。

 

イェンシーは絶望する間もなく次の手立てを考える。彼が収容所時代に妻に宛てた数百にも上る手紙を目の悪いワンイーに読んで聞かせ、自分を思い出してもらおうという目論見である。目の前で手紙を読む男が、実は夫であり、その夫が心を込めて書いたものであるとはつゆぞ思いもしない妻の姿に彼は落胆の色を隠さない。

 

ある夜、寝てしまったワンイーを観ていたイェンシーが彼女に優しく触れようとしたとき、目を覚ました彼女は、錯乱状態になる。「方さん。主人を絞死刑から救ってくれたこととこれは別の話よ」と暴行されようとしたと勘違いし激しく抵抗する。まさに自分と間違えた方なる人物は、共産党員で、自分の留守にうまいことを言ってワンイーを手籠めにしたことを一瞬にして悟ることになる。気持ちの収まらないイェンシーは方の居場所を探しだすが、すでに囚われの身となっていて肩透かしを食らう。心のやり場のないイエンシー。

 

ワンイーはいつからか「陸焉識」と大きく墨で書いたプラカードを作り、毎月五日の朝、駅で待つようになる。雨の日は文字がにじみ、雪の日は霞んでも立ち続ける。そして「夫」を探す妻の隣には、必ずイェンシーが立っていた。この映画の最後は、数年経っても二人がいつもと同じようにプラカードを持って雪の中で立っているシーンで終わる。それはワンイーにとってそれは苦しいけれど希望であり、イェンシーにとっては絶望であるが、本当の夫の自分に対する決して衰えることのない愛を感じるひとときでもあるはずである。

 

ワンイーの症状は解離性健忘にあたる。それは頭部の外傷、感染症、こころのトラウマやストレスなど様々な誘因によって引き起こされるが、人やものなど生活の中で必要な情報が思い出せなくなる状態をいう。思い出せない罪悪感から抑うつ状態になったり、大きな苦痛に悩まされたりする。多くの場合、記憶に空白の期間があり、その期間は数日間と比較的短いものが多いが、中には数年間、あるいは長年過去の人生をすべて忘れる場合もある。ワンイーの場合はこれにあたる。患者の大半は時間を失ったことを認識している。記憶障害のパターンは多種多様である。治療はまず、患者に安心感と信頼感をもたせることから始まる。欠落した記憶が自然に回復しない場合や、緊急に記憶を取り戻す必要がある場合は、これまでの写真を見せたり、ゆかりの場所を訪れさせるなどの記憶想起法がしばしば効果を発揮することがある。イェンシーの行った努力は医学的には正しかったことになる。

 

この病気は大半の人は、欠落した記憶を取り戻し、健忘の原因となった心の葛藤の解決に至るが、中にはワンイーのように心のバリアを突き破ることができず、失った過去を再構築できない人もいる。

 

文化大革命とは正式には1966年から1977年まで続いた革命、と言うよりは史上最大規模の暴動として知られる、毛沢東率いる中国共産党が行った「改革」である。肉体労働こそ是とされ、右翼の思想を持つもの、大学教授などの知識層、富裕層がこの改革で郡部で農業などの強制労働を強いられた。この「改革」に先立って1950年代の後半からすでに「改革」は行われており、右翼の思想を持つものや知識層で抵抗する態度を示したものは収容所に送られている。イェンシーはきっと抵抗したのであろう。収容所に20年も収容され耐え切れなくなり脱走したものと思われる。ちなみに主演のコン・リーの両親はいずれも大学教授であり、御多分に漏れず郡部に強制労働に送られているし、監督のチャン・イーモーも同じような目あっている。この映画は監督自身が数年紡績工場で働かざるを得なかった体験が生かされている。チャン・イーモーの中国愛は強く、北京オリンピックの開会式の総監督であったのは有名な話であるが、彼の作品にこの時代を描いたものが多いのは、こうした失われた10年に対するたまらない思いがあるからであろう。この「革命」により死亡したものは40万人とも1000万人とも言われ、被害者の数は1億人にものぼると言われている。中国の発展にとって大変な障壁となったことは言うまでもない。各地で虐殺や略奪、破壊が起こり、凄惨な様相を見せた革命の終焉は毛沢東の死を待たなければならなかった。

 

この映画は、抵抗する手段を持たない知識層のささやかな幸福は、政治の暴力の前にはもろくも崩れ去ることをまざまざと見せつけているが、一方で、庶民の夫婦の強い結びつき、愛はそんな状況でもずっと育まれ続け、何とかして生きる方法論を見つけるという姿を描いているのがせめてもの救いである。

Copyright© Department of Neurology, Graduate School of Medical Sciences, Kumamoto University.