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「海よりもまだ深く」-母親と息子の絆-
- 2017.03.1
「思い出という名の未練」とう名言を吐いたのは生前、切れのある落語を話していた頃の立川談志である。人生の中で遭遇する数々のシーンの中で必然的に生まれる思い出には、「ああ、あの時ああいえばよかった、こっちの選択をしておけばよかった、苦しさにもう少し耐えていれば」などと未練がいっぱい詰められている。私自身、これまでいく度か訪れた究極のターニングポイントのなかで、間違った選択をしていなければ別の人生があったのではないかと夢にまで出てくるようなことがいくつかある。人は結局、未練の塊のような人生を諦めという言葉で置き換え、時の流れと共に忘却のなかに追いやって生きている。「人生とは諦めることを悟る歩みである」、といっても過言ではないのかもしれない。映画「海よりもまだ深く」(是枝裕和監督)は思い描いていた人生とは違った現在を生き、思い通りにならずに蠢いている未練たらたらの中年男性の生き様をコミカルに、また共感を持ちながら優しい視線で描いていて身につまされる。
篠田良多(阿部寛)は、つい最近妻(真木よう子)と離婚している。二人の間には小学生の息子がいる。彼の人生は、15年前に「島田敏雄文学賞」というまずまずの文学賞を取った頃まではよかったが、父親譲りのちゃらんぽらんな性格、ギャンブル好きは変わりようがなく、遂に最愛の妻に三下り半を突きつけられてしまったようだ。彼は妻にも息子にも深い未練がある。できることならもう一度やり直すことができればと思ってはいるが、根本的な生活は改まらず、あきらめの境地になってきている。今は、場末のいかがわしい匂いのする探偵事務所で働いているが、金が入るとすぐにギャンブルですってしまう生活で、養育費の月5万円ですら満足に妻に渡せない経済状態である。だから顧客に不都合な事実を突きつけ、裏金をせびったりしている。
良多の父は最近他界した。何をしていたのかは明かされていないが、大のギャンブル好きで、嘘八百を並べたて、なけなしの金を妻(樹木希林)からせびり、借金を重ねながら生きてきたらしい。だから死んでも妻の表情には哀しみや郷愁といった類のものはなくさばさばしているし、安堵感すら漂う。良多が父の死後会った父の友人の口からは、誉め言葉よりもいい加減な父の一面をぼやく言葉しか出てこない。良多は亡き父の実態に改めて驚くとともに、自分は少しはましな人生を送りたいと願うが話はそう簡単には運ばない。
姉も母親の苦労を目の当たりにしてきたこともあり、生前の父親のことは不満だらけで、父親の姿とダブって見えるような弟の生き方に、会えば文句をいう。金のない良多はそんな姉からまでも借金しようとするが、冷たくあしらわれる。こんな時のよりどころは自分を生んでくれた母親だけだ。だから、古びた団地住まいを続ける母(樹木希林)のところに出没する。それはきっと常時金欠病のような暮らしているため、うまいことをいって母からお金をせびる目的もあることは確かだがそれだけではない。やはり寂しいのだ。
こういう人間は何故か優しさだけは失わない。良多は、息子と久々に会った時、少しは父親らしいことをしてやりたいと野球のスパイクを買いに運動具店に連れていく。お金のあまりない彼は、スパイクの一寸した汚れをチンピラまがいの口調でケチをつけ、値切るシーンはいじましいが共感できる。息子はおばあちゃんが好きだ。だから金もかからないし母親への点数稼ぎにと息子を彼女が住む団地に連れていく。
夕暮れ時、別れた妻が迎えに来るが、その日は生憎、九州地方に台風が上陸し関東地方に向かっていた。だんだん雨風が強くなるなか、母親は強引に彼女を引き留めて、泊まって行くことにさせてしまう。それはやはり「できた嫁」に対する未練に他ならない。良多も別れた妻も同じ屋根の下で一夜をともにすることを躊躇するが、彼のことが嫌いではない別れた妻も泊まることが嫌というほどではない。ダメ男の良多は「もう一度何とかならないのか」と未練がましいことをいうが、「もういい加減前に進ませてよ」と突き放す。本当に未練があるのだ。
この世に精子と卵子が融合して受精卵が誕生する時、新しく誕生した生命体は父親由来のミトコンドリアを捨て、すべて母親由来のミトコンドリアを細胞内に抱え込む。個々の細胞の核に折りたたまれた2万個強の遺伝子は、等しく父親由来のものと母親由来のものと同数であるが、ミトコンドリアには37個の遺伝子があり、それはすべて母親由来のものだ。しかも妊娠の10か月の間、連中は一つの生命体として生活してきた絆は、父親との類ではない。だから母と男の子と女の子は同等の関係かというとそうではない。母親と息子は一般に母親と娘以上に特殊な関係があるようにみえるのだ。娘はいずれ嫁に行き、母親とまったく違った世界で生活することになり、夫となる家の論理で生活することになり「他人」と認識せざるを得ない状況になる。同性の共感はあっても所詮「他人」であることを無理やり認識せざるを得ない。だから時としてライバルとなることもある。一方、息子とて結婚すれば、母親そして母親の家庭より妻との家庭の方がずっと大切になるが、姓も変わらず、自分のコントロール下にある錯覚を抱く。いってみれば、心の中ではいつまでたっても息子は自分のものである。樹木希林が演ずる母親のように、お金をせびられても、嘘をつかれても許してしまう無償の愛をもって息子に接する年老いた母親は巨万といるであろう。それは母と息子であればこそである。
東京オリンピックの頃、日本に団地が急速に広まった。今思えば、「団地サイズ」と呼ばれた空間は各部屋も風呂もトイレのスペースも、今の平均的なマンションと比べて圧倒的に狭く、阿部寛の様な大男は風呂につかると水が無くなるほどだ。エレベーター一つない建物だったことに驚くが、当時は高根の花であった。私もいつか団地に住んでみたいと、テレビで垣間見る映像をみていた思い出がある。ところが半世紀の時空を経て、世はマンションの時代になり、団地は古びた前近代的なノスタルジックな居住空間と変化した。今はマンションに入居できなかった老人の世帯が未練をもちながら生活しているのかもしれない。そこでは孤独死も後を絶たない。
この映画のタイトルはテレサ・テンが歌う「別れの予感」の歌詞から来ている。恋愛の絶頂期にあるが故に感じる、いつ襲ってくるかもしれない別れの予感を、瑞々しい女心とともに歌い上げたもので、この曲がラジオから流れる。「教えて 悲しくなる理由(わけ) あなたに触れていても 信じること それだけだから 海よりも まだ深く 空よりも まだ青く あなたをこれ以上 愛するなんて 私には出来ない」。母親は「海より深く人を好きになったことなんてないから生きていけるのよ」という名言を吐く。何事にも本気になれず執着心を持てない息子に不満を感じつつも、逆に人や物への執着を捨てれば少し楽に生きられることを、長い人生のなかで知り尽くしているこの母親はさりげなく息子の前でそうつぶやく。人生の正念場で体を張らない人生は実りは少ないが、その分息苦しさも少ないのかもしれない。
そもそも是枝監督は、映画の中で食事のシーンをよく描く。この映画でも食べるシーン、食卓のシーンが多い。家族のだんらんは家族が囲む食事時であるという監督の思いが貫かれているように思える。谷崎潤一郎は、「美味方丈」という言葉を残した。料理の美味しさは、食事自体が持つ美味もさることながら、皆で囲む方丈(四角い)テーブルのなかにある。そういえば、遠足での昼食、友達と輪になって食べた母のおにぎりは飛び切りうまかった。15年前、賞をもらった良多の小説の題は「無人の食卓」である。当時もちゃらんぽらんな生活を重ねていたであろう彼がその後の自分を予見していたかのような「卓越」したタイトルである。良多には小説家のセンスはあるのに惜しいかぎりだ。