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「舟を編む」-言葉の獲得と進化
- 2014.08.1
言葉の意味を説明するのは難しい。このことは子供を育てていくと痛感する。「パパ、xxってどんな意味?」。子供が小学校の低学年の頃からこの手の質問は急増する。運よく子供が知っている同義語が見つかれば事無きを得るが、そうでない場合は零からの説明となるのでしばしば四苦八苦してしまう。例えば右という言葉を説明するのはどうするか。どんな言葉を用意すれば「ミギ」という言葉をわかってもらえるか。いくつかの辞書をひも解いてみると様々な表現がみられる。「西に向かって立ったときの北側を言う」、「アナログ時計の文字盤の1時から5時の側を言う」など、この言葉一つを説明するのにもエネルギーがいる。また、ダサい、うざいなどに代用される若者言葉をどう説明するのかも難しい。
東京の大手出版社・玄武書房の辞書編集部では、現代を生きていくうえで必要な言葉を網羅した国語辞典「大渡海」の編集を進めていたが、これを企画していた荒木公平(小林薫)が定年退職が間近になっていた。、映画「舟を編む」(石井裕也監督)の話である。辞書編集部の構成は、荒木に加えて正社員の西岡正志(オダギリジョー)、女性契約社員の佐々木、荒木と共に『大渡海』の編集を進めてきた学者の松本先生(加藤剛)の四名で、若者言葉を含む見出し語の数で23万語を予定する一大国語辞典の編集をスタートすることになっていた。荒木の後任としては、言葉のセンスがあると認められた、馬締光也(松田龍平)が配属されることになる。馬締は大学で言語学を専攻したのちこの会社に務めるようになる。まず配属され先は営業部であったが、これが完全なミスマッチ。自社の本を店頭に置いてもらう交渉を小売店とするだけで四苦八苦している。しかし編集部への移動後、彼は言葉への強い執着心と持ち前の粘り強さを生かして、徐々に辞書編集者として才能を発揮してゆくことになる。
馬締は会社の近くにある、古びた早雲荘という屋敷に間借りをしていたが、部屋には一寸した図書館のように学術書が所狭しと並んでいた。そこは、タケさん(渡辺美佐子)が住んでいるが、下宿人は馬締一人で、学生時代から世話になっていた。辞書編集部に異動して3か月ほどが経ったある日、ふさぎこみがちな馬締にタケさんがしみじみいう。「みっちゃん(馬締)は、言葉を大事にしながら職場の人と仲良くなりたいんだね。仲良くなって、いい辞書を作りたいんだ」。馬締は、心の中に渦巻いていたもやもやが晴れる思いがして、これを契機に辞書作りに邁進していくことになる。
ある時から早雲荘に板前修行中のタケの孫・林香具矢(宮﨑あおい)が住み込むことになる。馬締は、恋に落ちる。ある日香具矢から「ねえ、どこか遊びにいかない。近いし、後楽園とか?」と誘われる。後楽園遊園地の観覧車に乗るが、馬締は手一つ握ることができない。しかし次第に馬締のまじめさや優しさが香具矢に伝わるようになり、時を経てゴールインすることになる。
雑誌社の辞書編集部は、経営上、国語辞典の編纂だけに専念するわけにはいかない。他の辞書の改訂や編集にも追われ、「大渡海」の編纂はマンパワーの不足から迷走を極める。そこに入社3年目でファッション誌の編集部にいた岸辺みどりが配属になる。そしていよいよ辞書作りもゴールが見えて来る。
10年以上の時が流れ、4回目の校正作業が始まった時、事件が起こる。見出し語から一部の言葉が抜けていることが判明したのだ。確認すると以前から抜け落ちていることがわかる。誤りのある辞書はだれも信用しなくなる。馬締は、大量に採用していた学生アルバイトたちも含めた全員に、23万語の見出し語を一からすべて洗いなおす作業を行うよう命令する。すべての作業員がことの重大さを共有し、大幅な遅れを取り戻すため徹夜作業が続くことになる。
18年の歳月が流れたとき、「言葉の番人」の様な松本先生が食道がんに倒れで帰らぬ人となる。辞書作りはあたかも大海原に漕ぎ出す船を編むような作業なのだ。いろいろな困難に遭遇する。大辞林(三省堂)は完成までに38年かかったというからまさに辞書の編纂は辞書編集部員の人生を賭けた大仕事ということができる。馬締らは社員としての生活の半分近くを辞書作りにささげたことになる。そうした中で、人は死して名を残すというが、松本先生は死して辞書が完成する。
ヒトが現在の姿に進化できた最大の要因のひとつは二足直立歩行を始めたことによる。そしてそれによる手の使用により日常生活の多様性が生まれ、更に類人猿などに見られる大きな顎が退化し、脳に咀嚼時の振動が加わらなくなったことにより脳機能が進化し始めたと考えられている。しかしこれだけでは現在の人類は完成しなかった。人間への大躍進の原動力は4-5万円前に言語を獲得したことであることは言うまでもない。
人類は直立二足歩行と相まって咽頭腔と喉頭腔の遺伝的変異がおこり、それにより口腔と咽頭腔が直角になり、咽頭が下に移動した。これは複雑な話し言葉を可能にする解剖学的な構造変化であった。しかしこれと引き換えに、喉の構造が変化し、飲食物と呼吸が通る道が同じになってしまった。人類は飲食物と呼吸の経路切替のため、舌、唇、あごといった口腔、喉頭、咽頭の各筋肉を高度に調整する必要が生じ、脳神経や筋肉が極端に発達した。こうした変化の副産物として、人類は誤嚥で窒息死したり誤嚥性肺炎になってしまう構造を獲得してしまったのだ。脳梗塞や老化などにより食物を安全に飲み込むための脳神経、筋肉の動きが鈍ると、誤嚥による誤嚥性肺炎などにより死に至ることがある。ALS、脊髄小脳変性症、パーキンソン症候群など、様々な神経疾患はこうした脳神経の機能にも影響を与え、進行すると嚥下機能が低下し誤嚥による嚥下性肺炎で死亡するケースが多くなる。また肥満者が睡眠時無呼吸発作を起こしやすいのは、肥満者には短頸が多く、睡眠時に喉頭周辺の筋肉が弛緩し、舌根沈下が起こりやすいためである。高度な機能を搭載した機器は壊れやすいが、単純な機器は壊れにくい。Simple is the best!という言葉があるが、高度な機能を持つ人類と類人猿との違いがここにある。
こうして発達した脳と、口から自由に呼気を出せるようになった喉構造の変化とが相まって、複雑多様な発音ができる準備が整った。 それが脳の発達を促し、進化した脳でさらに高度な思考ができ、言葉が豊富になるという好循環が回り、ついに類人猿の三倍という大きな脳が完成した。この高度な脳と言語の獲得こそ人類進化の最大要因であるといえる。
7万年前までヒトと共存し、我々より大きい脳を持っていたネアンデルタール人が絶滅した原因は言語能力がひくかったことにあったといわれる。彼らの脳容量はわれわれの祖先ホモサピエンスよりはるかに大きかったが、前頭葉が小さく、言語機能を司るブローカー言語中枢も小さく、言語能力が発達しなかった。情動や強調性は前頭葉が司るため、こうした機能が発達しなかった。このような理由からネアンデルタール人は他の動物やホモサピエンスとの生存競争に勝つことができず、ついに絶滅したものとみられている。
数百年前から数万年前まで、ヒトの進化は些細なものであった。しかしある時期からヒトは異常に進化を遂げた。それは言語の獲得以外何物でもないことは明白である。ヒトは言語の獲得以降、すさまじいスピードで、文化を手に入れていくが、今や人類の文化の発展に遺伝子の変化がついていけなくなっている。文字の発明と使用、印刷術の発明、そして今日のコンピュータとインターネットの技術などの情報革命が人類をさらなる飛躍に導いているが、それを理解する脳の進化は止まってしまっているかに見える。だからこそそうした遅れを補うため、しっかりした辞書が必要になるのであろう。