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「博士の愛した数式」-健忘
- 2007.11.1
友愛数:その数字の約数の和同士がそれぞれの数字となるものをいう。具体的にいうと、220と284は友愛数であるが、220の約数、1+ 2 + 4+ 5+ 10+ 11+ 20+ 22 + 44+ 55+ 110 = 284、284の約数、1+ 2+ 4+ 71+ 142= 220となる。ちなみに1184と1210もこうした関係にあるがその組み合わせは今までのところ数組しか知られていない。神秘的な数の偶然である。一方、その数字の約数の和がその数字になるものを完全数という。たとえば6がそれにあたる。1+ 2+ 3= 6となる。このほかに28、496など限られた数字しかない。こうした数字の存在は、古代ギリシャ時代の数学者ピタゴラスも知っていたらしい。最近の世の中は実学志向で、その学問が目に見える形で社会に還元されることを良しとする風潮が強い。だからこんなことを知っていて何になるのか、ということになるのかもしれないが、こんな講義を学校の授業で聞くことができたら、きっともっと数学に親しめただろうに、と思ってしまうのが、小川洋子の同名の小説を映画化した「博士の愛した数式」である。
この映画は外傷性健忘のため、記憶が80分しか記憶の持たない、将来を嘱望されていた数学者、博士(寺尾總)と、博士の身の回りの世話をするために雇われた家政婦(深津絵里)、そして頭の形からルートとあだ名をつけられた少年のさわやかな心のふれあいを描いた物語である。ルートはこの博士との出会いにより人生を左右されることになる。成人して高校の数学教師になったのだ。そして数学の楽しさを学生に教えている。この物語は、成人したルート(吉岡秀隆)が、毎年決まって新入生に新学期の最初の授業で友愛数や完全数、素数などを教えながら自分に数学の楽しさと生きる勇気を与えてくれた博士を回想する形でストーリーが展開する。とにかくこの数学の授業は、私がこれまで受けたどの数学の授業よりも分かりやすく、楽しい。
理由は語られていないが、杏子(深津絵里)はシングルマザーで、10歳のかわいい息子とともに家政婦をしながら一生懸命生きている。息子は鍵っ子である。彼女の今度の就職先は、9人もの家政婦を交代させたという件の博士の家である。博士はケンブリッジ大学で博士号を取り、新進気鋭の数学者だったが、交通事故により脳挫傷を負い、80分しか新しい記憶が持たないようになってしまっていた。恭子は、毎朝初対面として自己紹介をし、同じ質問を博士から受けるところから一日が始まる。博士は短時間の記憶喪失を補うためのメモをぶら下げ、なんとなく陰気な生活をしていた。杏子は一生懸命家政婦のルーチンをこなしながら、持ち前の明るさで、博士の心と触れ合おうとする。やがて杏子は博士の優しさと実直さ、一瞬一瞬を誠実に生きる純真さに親しみを持てるようになっていったが、博士もそうした母性を感じるのか、家族のような関係が持てるようになっていった。 時折、杏子が黒板に記している数式や記号を尋ねると、博士は嬉々として説明するのであった。ある日、偶然、杏子に子供がいることが博士に知れる。「子供を独りぼっちに家に残しておくなんて許されない」。この鶴の一声で、杏子の子供は放課後、博士の家で過ごすようになり、「ルート」という呼び名で呼ばれるようになった。
数学に加え、もうひとつ博士とルートをつなぐものは、ともに熱烈な阪神タイガースのファンであるということであった。博士は事故の時点で過去の記憶は止まっており、彼の言葉からは、往年の大スター江夏が活躍した頃の選手の名前しか出てこないが、少年は、阪神タイガースファンというという一体感においても博士と強い絆で結ばれていた。
記憶障害には、前向性健忘と逆行性健忘がある。前向性健忘にはさらに2つのタイプがある。1つは、頭部外傷など急激な中枢神経系の損傷に伴って意識障害を生じ、このため新しい出来事が登録されず、回復した後になっても追想できない期間を残す障害パターンである。もうひとつは、新しいことが覚え込めなくなる障害のタイプで、前向性健忘と呼ぶのが一般的になっている。このような障害は薬剤によっても一過性に起こる。睡眠誘導薬の副作用として一過性の前向性健忘が起こることは良く知られている。このタイプの健忘は、服薬後の薬効が現れている時間内の記憶障害で、一過性のものである。特に高力価で短時間作用型の睡眠誘導剤の使用時にこうした障害が多く出現することが知られている。
これに対して逆向性健忘は、大脳の傷害が原因の健忘症で、脳損傷などによって起こることが多い。傷害発生時点より以前の出来事を思い出せなくなる状態をいう。発症時点に近い時期の記憶(近時記憶)ほど障害を受けやすく、発症から遠い時期の記憶(遠隔記憶)ほど保存される傾向にある。アルツハイマー病の認知機能障害のパターンに似ている。このような逆行性健忘は、遺伝性脊髄小脳変性症、遺伝性筋萎縮性側索硬化症、遺伝性アミロイドアンギオパチーなどの疾患の症状として時折見られることも知られている。
この映画では、博士と杏子とルート親子の繋がりの他に、義姉(浅丘ルリ子)と博士の過去の秘め事もストーリーの展開で重要な部分を占める。義姉と博士は、博士の兄が死んだあと、徐々に愛をはぐくむようになっていくが、ある日二人は同乗した車が交通事故に会い、その愛を責められるかのように、義姉は右足が不自由になり、博士は健忘症を引き起こす脳傷害を負うはめになったのだった。以来、一人で生活できなくなった義弟を、義姉はひまわりのように付き添い、家政婦を雇いながら支えていった。だから、献身的に世話をし、家族のように振舞う杏子をみて義姉は嫉妬心を抱き、一度は杏子を解雇してしまう。しかし杏子の純真な感情と、義弟への愛はその気持ちを昇華させ、再び彼女を雇うことになる。
ひまわりは太陽の申し子とされ、古くから多くの物語や詩歌で重要な役割を果たしている。イタリア映画「ひまわり」は第二次世界大戦でソ連に従軍兵として消えた夫(マルチェロ・マストロヤンニ)をひまわりのように探し回る行動力のあるイタリア女(ソフィア・ローレン)の悲恋を描いた名作であるが、ウクライナのどこまでも広がるひまわり畑の風景が映画の中で重要な脇役を演じた。ギリシャ神話には、ひまわりにまつわる、とりわけ素敵なラブストーリーがある。水の女神クリティエは太陽の神アポロンに恋をした。一心にアポロンを見つめ続けた彼女は、いつしか大地に根を生やしひまわりになってしまっていた。恋は実らなかった彼女だが、ひまわりとなった今でもアポロンを見つめ続けているのだという。ひまわりは英語ではSunflower、日本語では向日葵と書く。洋の東西を問わず、ひまわりはひたすら太陽を見つめて生きる明るくけな気な花であるとの認識が定着しているが、太陽を追いかけるのは実は成長期のひまわりで、花をつけたひまわりはもはや太陽を追わない、ということは意外と知られていない。花の根元の茎が太く硬くなりしなやかさを失うためだ。人も同じで、幼児期のヒトは身体の80%以上が水分であるが、老年期になると60%代に落ち込む。こうなると体のみずみずしさ、しなやかさが失われるのは言うまでのないが、心も水分を失い、殺伐として、他人のことなど構っていられる状態ではなくなる。みずみずしい感情を詩歌にしたためた詩人は啄木を置いて右に出るものはいない。啄木は20歳代に逝ってしまったが、若さゆえの詩歌であることは言うまでもない。
君に似し 姿を街にみる時の こころ踊りを あはれと思え (啄木)